ハーデス編1
「アッ、ムウ様が帰ってきたあ!」
中国とインドの国境に広がるヒマラヤ山脈の中でも、山の民チベット族でさえ恐れて近づかないといわれる魔境の地、ジャミール。
岩山の上に聳え立つ五重塔から、赤毛の少年が顔を覗かせて叫んだ。見ると、黄金に輝く鎧を纏った青年が塔へと近づいてくる。長い黒髪を背中で束ね、眉をそり眉間に二つ点を描いた、どこか神秘的な雰囲気を漂わせる若者だ。その輝かんばかりの黄金の鎧は、首周りに大きな羊の角を象っている。――アテナの黄金聖闘士、牡羊座のムウである。
ムウは、館の側まで来ると忽然と姿を消した。館の中へ瞬間移動したのだ。部屋では先程の少年と、一人の少女がムウの帰りを待っていた。二人とも緊張の色を浮かべ、無言でムウの言葉を待っている。ムウは、少年に目をやると静かな口調で言った。
「貴鬼、4対の青銅聖衣をここへ――」
貴鬼と呼ばれた少年は力強く返事をすると、ポンと音を立てて最上階へと姿を消した。
雨水が、仕切りの無い窓から降り込んでくる。その雫が床に跳ねる様を、少女は伏せ目で見つめた。美しい、見る者全てを魅了するような赤い瞳だ。その瞳から漂ってくるものなのか、部屋の中は甘い香りで満ちている。ムウは目を閉じた。暗闇に悲しげな花の姿が浮かんだ――
再び貴鬼が戻ってきて、4つの大きな箱を無造作に並べた。
「ムウ様、ペガサス、ドラゴン、キグナス、アンドロメダの4体の聖衣、持ってきました。」
「ウム・・・。貴鬼、それを五老峰へ持っていきなさい。必ず彼らは現れる。これらをしかと渡すのですよ。」
貴鬼は、大きな瞳を輝かせて頷いた。そして箱の上に手をかざすと、精神を集中させ始めた。
「キ、貴鬼・・・!」
不意に、それまで押し黙っていた少女が呼び止めた。貴鬼は少し切なそうな顔をすると、振り向いて笑みを浮かべた。
「行ってくるよ、フィオナ。」
そう言い残すと、一瞬にして貴鬼は姿を消した。4体の青銅聖衣と共に――。
「貴鬼・・・!」
フィオナは白いスカートの裾を握り締めた。そして再びうつむくと、床に躍る雨水の雫がにじんで見えた。
暫しの間、沈黙が流れた。フィオナの弱弱しい呼吸だけが、雨音を縫って聞こえてくる。
ムウは額から伝い落ちた雨水を手でぬぐうと、おもむろに口を開いた。
「・・・私はまた、サンクチュアリに行かなくてはなりません。フィオナ、あなたはここで留守をしていてもらえますか。」
フィオナの胸に垂れた柔らかな三つ編みが、かすかに揺れた。
「は・・・・い・・。」
だが、白い蝶は軌跡を描きながらムウの腕に止まった。行かせまいと、フィオナが止めたのである。
「フィオナ・・・」 ムウは栗色の頭を見下ろした。
「フィオナ、聞こえますか。あの雷鳴が。今、世界中は水没の危機にひんしている・・・。海皇ポセイドンが、地上を滅ぼそうとしているのです。聖闘士はそれを阻止する義務がある。わかりますね?」
「・・・・・。・・・・あんな・・・あんな小さい貴鬼までも行かなくてはならないなんて・・・。どうしても・・・どうしても行かなくてはならないのですか、十二宮に。」
ムウは、雪のように白いフィオナの腕を掴んだ。意外にあっさりと手ははがれた。
「黄金聖闘士は十二宮に来るよう招集がかかっているのです。それに背くわけにはいかない。いいですね、私がいない間、この館を頼みましたよ。」
マントを翻して、ムウはその場から消え去った。が、1秒も立たないうちに、再び部屋へ舞い戻った。
両手をかざすと、空中からフィオナが落ちてきた。瞬間移動しようとした刹那、追いすがったフィオナが途中で振り飛ばされたのだ。
「フィオナ!!」 その体を抱きとめると、ムウは語気を強めた。
「何度言ったらわかるのです。私は行かなくてはなりません! そして、あなたをサンクチュアリに連れて行くこともできないのです。あなたはここにいるのです、フィオナ! 私は暫く十二宮を動けないと思うが、そう長くないうちに貴鬼が帰ってきます。さあ、離れて―――」
ぱっと、赤い花びらを散らせて、フィオナがムウの胸にすがりついた。急なことにムウは一歩たじろいだ。
「い・・・や! いやです・・・ ムウ様・・・!」
「フィ・・オナ・・・」
「いつかおっしゃいましたね。いつまでもここにいて欲しいと・・・ 共に貴鬼の成長を見守って欲しいと!なのに・・・ なのに、その貴鬼を遣わせ、そしてあなたまでこのジャミールを去ろうというのですか!行かないで・・・ どうか、行かないでくださいませ、ムウ様! ・・・一人は嫌です!」
フィオナの薄い背を支えるムウの手が、行き場無くさ迷った。ムウはフィオナを立たせると、静かに肩に手を置いた。
「何も、二度と帰ってこないというわけではないのです、フィオナ。貴鬼も、星矢たちに聖衣を渡せばすぐに帰ってくるはず。この闘いが終わるまで―― 地上の平和を取り戻すまでの辛抱ではありませんか。大丈夫、アテナはポセイドンなどに負けはしません。必ず勝利を収めて帰ってきます。そうしたら、また、この地で暮らせます・・・。」
「・・・誓えますか・・」
「・・・・・。」
「必ず、またこのジャミールの地で暮らせると、誓えますか。あなたは聖闘士としての使命を第一として、新たな戦いが始まれば真っ先に出陣なさるのでしょう。そして、アテナの為ならば、地上の為ならば進んでその命を捨てる覚悟でいるのでしょう。
ムウ様・・・。――ならば何故、あのようなことをおっしゃったのですか・・・。私をぬか喜びさせるようなことを、どうしておっしゃったのです!私はやっと信じたのです。心を許したのです。・・・・あなたをお慕い申し上げたのです!」
黄金聖衣の滑らかな表面を、熱い雫が伝った。ムウは、フィオナの肩に置いた手を背中に滑り落とした。そして強く抱き寄せた。
「行かないで・・・ 留まってください、ムウ様・・・! フィオナのために・・・! 反逆の罪にかけられるというのなら、この世界のどこへでも共に逃げてください! 嫌です、嫌なんです! もう失うのは!! もうたくさんなんです!! ・・・お願いっ!! あなたは聖闘士である前に、一人の男性ではありませんか!」
「――そうです、私は牡羊座のムウである前に、ジャミールのムウ・・・ そして、・・・フィオナという、一人の女性を愛する一人の男です・・・。そう、そうでありたい。できるものなら、どこかサンクチュアリの手の及ばぬところで静かに暮らしたい。記憶の限り、幼い頃より俗世から引き離されたこのムウにとって、あなたという存在は輝かしかった。私も、人並みの幸福を得ることができるのかもしれないと思った。」
「できますっ・・・! 作るのです、手に入れるのです、未来を! 幸福を!」
「・・・だが、私はやはりそれ以前に、聖闘士という宿命の下に生まれた人間。アテナでさえも、普通の少女としての生き方を捨てたのです。それに従うべき聖闘士が、どうして、己の私情のためだけに義務を放棄することができましょう。そして、その聖闘士が戦わずに、一体誰がこの地上を守るのでしょう。
・・・個人の幸せは、大衆の幸せと同じくらい重い。本来ならば、一つの幸せをも犠牲にしてはならない。ですが、フィオナ・・・。私たちの幸福の後ろには、数え切れない人々の幸せと平和がかかっているのです。私はやはり、それらを無視することは出来ません。
だが、これだけは誓おう。私はこの先、どのような形にしても、常にあなたと共にいる。決して離れはしません。」
「ムウ様・・・!」
「愛しています、フィオナ・・・」
ムウは、静かに口づけをした。フィオナの瞳から、一筋の涙がこぼれた。
そして、優しい残像を残してムウは姿を消した・・・。
「ああ・・・・」
フィオナは悲しみの前に跪いた。
「あなたが聖闘士でなかったら・・・! 私が、魔女という呪われた運命の下に生まれていなかったら!!」
数多の星座が、今夜も十二宮に降り注いでいる。
あの日から、もう10日余り。アテナとポセイドンとの聖戦は、アテナの勝利に終わり、世界には再び平和が戻っていた。
だが、サンクチュアリは違った―――。黄金聖闘士はおろか、世界中の聖闘士が集められ、厳重な警戒態勢がしかれている。幾重にも張られた結界を雑兵が巡回し、ねずみ一匹入り込む隙も無い。
ムウもまた、長い間白羊宮を離れていない。アテナの帰省後、吹きさらしの宮の中で日が昇るのを眺め、うららかな春の空を仰ぎ、柱と柱の間にきらめく星々を見上げた。五老峰の老師の命でこの十二宮を守っているが、ポセイドンとの戦いが終わった後、このサンクチュアリには何ら暗い影も見当たらない。居眠りをする雑兵も日に日に増えた。
ムウは横になった。巨大な石造りの柱の上に、果てしない宇宙が広がっている。
ふと、隣で息遣いが聞こえるような気がした。ジャミールで、フィオナとよく星空を眺めた――。
あの、静かなひと時。ヒマラヤの澄んだ大気に、二人ぽっかりと浮かぶ安らぎ。
ムウは、星を撫でるように空へ手を差し伸べた。そして、強く拳を握り締めた。
――今度の闘いでは、聖闘士の大半が死ぬことになるだろう。 ムウは瞳を閉じた。ジャミールに残してきたフィオナを想う。別れ際に見た、花びらから滴り落ちるような、美しい涙を想う。悲しい悲鳴を思い出すたびに、ムウの胸は激しく痛んだ。
あの日―― 十二宮で、黄金聖闘士と青銅聖闘士との闘いが繰り広げられたあの日。こうして白羊宮に腰掛けていたムウの下に、教皇の間に仕えていたフィオナが、食事を運んできたのがそもそもの出会いだった。フィオナは、この世のものとも思えぬ妖艶さを漂わせていた。迂闊にも、ムウの心は魅了された―― おそらく、他の黄金聖闘士たちも同じだったろう。
フィオナは、現代に甦ったただ一人の魔女だ。見る者全てを魅了するその魔力は、全ての感情を超越した黄金聖闘士でさえも、眼を背けることが出来ないくらい強烈なのである。
だが、ムウは、その姿に幾たびか春の陽光を見た。母性的なあたたかさを感じた。そして何よりも、奥深いところに隠された、凍てついた孤独に、包み込みたくなるような可憐さを覚えたのだった。
――行かないでください!!
フィオナは何よりも孤独を恐れている・・・。誰かを想い、そして、亡くしてしまう悲しみを知っている。
ムウが実際にそれを目の当たりにしたのは、カミュの死であった。フィオナはカミュを想っていた―― 12時間ずっと、ひたすらカミュの無事を祈りつづけていた。
カミュの死を悟った時の、あの悲しみよう。半ば気が振れたのではないかと思わせるほどの嘆きだった。それを思い出す時、ムウは、フィオナへの同情でもない、カミュへの追慕の念でもない、何かしらもやもやしたものを胸に感じる。2人に何があったのか・・・今は知るすべも無い。
だが、一つだけ確かなことは、フィオナに再びあの苦しみを強いたという事だ。胸にすがって、サンクチュアリへ行くのを必死に止めたフィオナ。共に逃げて欲しいと、切に訴えたフィオナ。
フィオナはあの暗い館で、一人泣き伏しているのだろうか? 孤独に、その命を絶とうとしているのかもしれない。それは、決して過剰な思い込みなどではなかった。現にフィオナは、カミュを救おうとその命を投げ出した。孤独よりも、愛する者を失う悲しみよりも、死を選ぶ少女なのだ。
ムウは起き上がった。今すぐにでもジャミールへ帰ろうかと思う。そして、もう一度、しかとフィオナをこの胸に抱きたい。何なら、この白羊宮に置いたっていい。…――だが、そうできない自分が憎い。フィオナへの愛よりも、聖闘士としての使命を取った自分を恨めしいと思う。
(明日、貴鬼をジャミールへ帰そう。) ムウはそう決めて、再び柱へよりかかった。
一筋の流星が、ジャミールの方角へと流れていった。
――フィオナ・・・・
――許してください、フィオナ・・・。だが、私はあなたと共にいます・・・。例えこの身が滅びようとも、魂は決してあなたと離れはしません・・・。
「貴鬼!」
翌日の夕暮れ。白羊宮に姿を現した貴鬼は、ムウの叱りを受ける羽目になった。
「白羊宮に来るようにと、朝からずっと呼びつづけていただろう。今までどこで道草を食っていたのです!」
貴鬼は、小さい背を更に縮めてムウを見上げた。こんなに怒られることは滅多に無い。手を行き場無く背中でさ迷わせながら、いつもの何分の1かの声で貴鬼は答えた。
「す・・・ すみません、ムウ様・・・。ちょっと、魔鈴さんと近くの村を周っていたものですから・・・。」
「近くの村を・・・? 何故・・・ いや、いい。そのようなことは・・・。」
ムウは静かに息をつくと、普段の眼差しで弟子の面を見下ろした。
「貴鬼。ジャミールに帰りなさい。」
「エ、ジャミールへ?」
師の意外な言葉に、叱られた事も忘れて貴鬼は飛び上がった。
「でも、聖闘士じゃないおいらも、このサンクチュアリを守らなくちゃいけないって・・・。猫の手も借りたいって言ってましたよ。何でジャミールなんかに・・・。」
「・・・フィオナが一人でいる。」
貴鬼ははっとした。この十数日、フィオナのことを忘れていたわけではない。だが、星矢たちと共に海底神殿で戦い、聖闘士たちと共にサンクチュアリを守るよう言い渡されて、使命に燃えていたところなのである。フィオナのことは、全てが終わった後、大手を振って戻った貴鬼を、笑顔で迎えてくれるだろうくらいにしか考えていなかった。
貴鬼は、ムウの顔をもう一度見上げた。憂いを含んだムウの瞳が、一段と今日は曇っている。ムウはうつろに目を細めて続けた。
「もう長い間フィオナは一人だ。特に、お前の身を案じていることだろう。貴鬼、帰ってフィオナに無事を知らせてあげなさい。そして、フィオナをこの白羊――」
ムウは思い直した。この事態に私情をはさむとは、聖闘士にとってあるまじき行為だ。十分心得ているはずなのに、何を考えているのか・・・。
決め時だ。ムウは次第に訪れる闇を見据えた。
「――そして、お前はもうサンクチュアリに来なくていい。ジャミールで、フィオナの側にいてあげなさい・・・。」
貴鬼の大きな瞳に、ムウが浮かび上がった。今、この時の師の姿を、その角膜に焼き付けるように。
不意に、水面に波が立ったようにその像が歪んだ。ムウは、その瞳を静かに見下ろした。
「いいですね、貴鬼。」
こっくりと貴鬼は頷いた。その拍子に、大きな水滴が音を立ててこぼれ落ちた。ムウは優しい笑みを浮かべ、数歩進み出て貴鬼の頭に手を置いた。貴鬼は、火がついたようにムウの腰にしがみついた。
「でも、でもっ・・・! フィオナはやっぱりムウ様がいないと寂しがると思うから、きっと帰ってきてくださいね。ね、きっと。約束してください、ムウ様!」
「何を泣く貴鬼。私はアテナの聖闘士なのだぞ。気掛かりなことを抱えて、正義のためになど戦えるか。良いですね、フィオナを・・・ 頼みましたよ。」
そう言うと、ムウは小さな体を突き放した。だが、貴鬼は甘えを拒絶された子供の様に鼻をすするばかりだ。
ムウは白羊宮を見上げた。遥か遠い日に、身に余る黄金聖衣を纏ってこの宮を見上げた自分を思う。師を亡くし、一人生きていく運命を抗うことなくただ受け入れた、7歳の自分の姿を。
貴鬼には、聖闘士としての宿命のみに縛られるのではなく、もっと人間として多くの可能性を秘めた聖闘士に育って欲しい――
いつか、ジャミールでフィオナに語った言葉だ。人の愛情を受け、多くの物を見、喜び、傷つき、誰かを愛し・・・。そして、死ぬ時に豊かな人生を振り返る。
ムウは、貴鬼に自らの姿を手本とさせたくない。俗世から離れ、多くの事に目をつむり、耳をふさいできた。人は超越したと言う。だが、超越したはずの、背を向けてきたはずのものに出会った時、自分の中の人間としての脆さと、その真の価値に気付いた。それを守るための戦士でありながら、それが何かを知らずに生きてきた過去。そして知ることが出来た時、それを守りたいと思った時・・・・。
私は、人を不幸にしかしないのかもしれない・・・。背後で貴鬼が流す涙に誘われて、ふと、ムウの頬を熱い雫が伝った。自分を一人の人間として必要とする女性には孤独を与え、弟子には自分と同様、師を失う試練を味わわせることになる。
だが―――・・・
ムウは踵を返すと、頭を垂れる貴鬼の肩を掴んだ。
「お前は私が守る・・・。」
「・・・え?」 貴鬼は青い目をぱちくりさせた。
「お前の未来を守ることが師として、そして、共にお前の成長を見守ろうと誓い合ったフィオナへ、私ができるせめてもの罪滅ぼし。迷いは晴れた。強く生きるのだぞ、貴鬼。」
貴鬼は、ムウの言葉の意味がわからず聞き返そうとした。だが、その時にはもう、貴鬼の体はジャミールへと天高く放り出されていた。
「ムウ様ああぁぁぁぁぁぁ――――――――――っっっっ!!!」
何千という星々が、体の横をすり抜けていった。まるで、宇宙の起源から時空を越えて旅をしているように、その時間は長く、終わり無いものに感じられた。
不意に、目の前を、光り輝く黄金の羊が疾風を起こして飛び去っていった。貴鬼の目からこぼれた涙が、その姿を追うように遠くへ遠くへと流れていった・・・。
宇宙が遠ざかり、黒雲を突き抜けると、ジャミールの大気が天から落ちてきた申し子を優しく抱きとめた。そしてゆっくりと、館の方へいざなっていく。この子がこの先、全てを分かち合うだろう女性の元へと・・・。
次へ:id:witchsanctuary:20120722
ハーデス編2
前へ:id:witchsanctuary:20120723
死の世界、冥界。
そこには一片の光も見出せない。吹きさらしの荒野がどこまでも広がり、冷たく重い闇が、亡者たちの苦痛の叫びを嬉々として呑み込んでいる。そこへ堕ちた者は、等しく永遠の絶望を与えられるのだ――
そんな闇と絶望が今、地上に生きる人間達にも及ぼうとしていた。
冥界の王ハーデスが、243年の時を経て甦ったのである。
ハーデスは、地上へ光を降り注ぐ太陽を閉ざそうとしている。永遠の日食―― グレイテスト・エクリップスが成功すれば、たちまち草木は枯れ、大地は死の世界へと変わるだろう。生き物は死に絶え、まさに、地上は第2の冥界となるのだ。
そんな中、アテナとハーデスによる最後の聖戦が幕を開けた。
ハーデスは死した聖闘士を甦らせ、これをもって十二宮を守る黄金聖闘士の始末にあたらせた。衝突すれば小規模な宇宙的爆発が起こるか、千日戦争の形になるといわれる、黄金聖闘士たち同士の闘いは熾烈を極め、事実上、十二宮の黄金聖闘士は破滅するに至った。
そして、舞台は冥界へと移り、聖戦は今、最終章を迎えようとしている。
ハーデスとアテナは神々の国エリュシオンへ。アテナに従い、戦いつづけてきた青銅聖闘士たち、そして、死の淵から辛くも甦った黄金聖闘士たちは、地獄の果て、ジュデッカにある嘆きの壁の前に集結した――
「良いか」
絶壁の要塞という言葉がふさわしく、行く手を阻んで立ちはだかる巨大な壁を見上げながら、243年前の聖戦の生き残りである天秤座の童虎が、4人の黄金聖闘士たちに語りかけた。
「アテナはこの壁の向こう、エリュシオンへハーデスを追って行かれた。我々は、星矢が持っているアテナの聖衣をお渡しせねばならん。だが、この嘆きの壁は、神々以外は決して通り抜けることの出来ない、言わば神々以外には絶望の壁・・・。その壁を壊すには、太陽の光を持ってせねばならんのだ。」
乙女座のシャカ、蠍座のミロ、牡羊座のムウ、獅子座のアイオリアの手には、それぞれ黄金の武器が握られている。天秤座の聖衣の武器だ。4人は、武器を構えて無言のまま頷いた。
「だが、我々の力を持ってすれば! 太陽の光を余すところ無く受け続けた、黄道十二星座の聖衣を纏う我々の小宇宙をもってすれば、小規模でも太陽の光を作り出すことができるはずじゃ。良いか、シャカ! ムウ! アイオリア! ミロ! 己の小宇宙を最大まで高めるのじゃ! 一点に命をぶつけるのじゃ!!」
5人の黄金聖闘士は壁に向き直った。その後で、青銅聖闘士の星矢と瞬が固唾を呑んで事態を見守っている。
「小宇宙を燃やせ!! 生命の限り最頂点まで!!」
黄金の圧力が、ジュデッカ神殿を揺るがした。嘆きの壁に刻まれた、王と王妃の像に彫りの深い陰影が出来始めると、黄金聖闘士たちは一斉に壁めがけて武器を放った。
―――この暗黒の世界に、光あれ!!―――
だが・・・。
轟音と共に壁にはじかれた5体の武器は、無残にも黄金聖闘士たちの体を射抜いた。5人は鞠の様に跳ね、その巨大な壁の前に醜態をさらすしかなかった。
「老師―――ッ!!」
星矢と瞬が蒼白な顔で駆け寄った。童虎もミロも、全員が瀕死の重傷だ。星矢は童虎の体を支えて起こすと、手についた血に顔をしかめた。
「老師! 今度は俺たちにやらせてください! 俺たち全員が小宇宙を合わせれば、こんな壁・・・」
「無駄じゃ!!」
童虎は星矢をふりほどいて、ふらふらと立ち上がった。
「無駄じゃ・・・。お前達が加わったところで、この壁は・・・。ポセイドン神殿のメインブレドウィナとは、訳が違うのだ!」
そこまで言うと、童虎は力尽きたようにがっくりと膝をついた。
瞬は、唇を噛み締めて5人を見回した。あんなに強大な壁のようだった黄金聖闘士たちが、何も出来ずただ床に這いつくばるしかないなんて―――
ここまでか・・・。
シャカはアテナの名をつぶやいた。その時、ふと、霞んだ視界の中に何やら赤い固まりを認めた。 (私の血か?) いや、違う。その固まりは、嘆きの壁とシャカとの間の床に浮かび上がっている。シャカは、体を引きずってその固まりに近づいた。そしてよく目を凝らしてみると・・・
「花・・びら?」
真紅の花びらなのだ。まるで床から沸いて出たように、一枚の花びらが、黒い床に張り付いている。
シャカは不思議な感覚に襲われた。息を吹きかければたちどころに飛んでいってしまいそうな花びらなのに、それからは、決して威圧的ではない、しかし、抗うことの出来ないような威圧感を感じるのだ。そして、それは敵対するものではなく、そう、まるでアテナのような・・・。いや、むしろこのシャカにとっては、アテナよりも絶対的な、運命を支配する超常的なものを禁じ得ない。
シャカは上半身だけを起こして、暫くその花びらを凝視した。後ろでは、仲間の呻き声が聞こえる。
ふと、シャカは夢から覚めたような気がした。 (そうだ、何故このような場所に花びらが?) シャカは花びらに手を伸ばした。
「うっ!!?」
突然飛びのいたシャカに、6人の目が集まった。誰もが新たな敵を予想した。4人の黄金聖闘士は痛みをこらえて立ち上がった。そして、シャカの視線の先に目をやるとー―
「な、何だこれは!?」
嘆きの壁を背にして、石畳の間から一輪の背の低い花が頭を持ち上げている。花びらの太い、平べったい小さな花だ。そして、その花びらは血の様に赤い・・・。
「春・・・ ちょうど、今ごろの季節に咲く野の花だ。し、しかし、こんな冥界に・・・それもこのような場所に? シャカ、こんな花咲いていたか・・・?」
アイオリアはシャカの横顔を覗き込んだ。だが、その顔は珍しく硬直している。シャカの唇がかすかに震えた。
「・・・・。始めは、ただの花びらだったのだ。それが、手を伸ばすと突然花開いたのだ・・・。」
全員が真紅の花を見下ろした。警戒こそ解きはしないものの、その可憐な姿に、誰しもが安らぎのようなものを覚えた。ただ一人、依然として、その花から放たれる威厳に身をこわばらせるシャカを除いては――。
その時、ムウが何かをその花に見た。 (知っている・・・。) ムウは、その燃えるような赤色に記憶をめぐらせた。 (この花は、知っている・・・。そうだ、いつも身近に咲いていた・・・。この赤い花びらを、私は毎日見ていた・・・!!)
不意に、花の姿が闇に歪んだ。赤い残像を残して床に解けたかと思うと、突然、黒い影が噴き出して聖闘士たちに襲い掛かった。
「何だい、その箒は?」
サンクチュアリのはずれにある、小さな村。その中を、貴鬼と魔鈴は歩いていた。
昨晩、ムウに呼び出されて白羊宮へ行った貴鬼は、今朝早く、困惑顔で魔鈴のもとへ帰ってきた。それからずっと抱えて放さない、大きな作りの箒が魔鈴の気を引いたのである。
「貴鬼。」
土埃の舞う地面を見下ろしたまま、足を進める貴鬼にもう一度魔鈴は呼びかけた。貴鬼ははっとして、魔鈴とは別の方向を2・3度見回すと、やっと気まずそうに、魔鈴の仮面をつけた顔を見上げた。魔鈴は息をついてもう一度問い直した。
「朝からずっと大事そうに抱えているけれど、何なのさ、その太い箒は?」
「ア・・・」 貴鬼は手に余る箒の柄を見下ろした。それからまた黙ってしまったので、魔鈴が続けた。
「昨夜、ムウに何を言われたのか知らないけど、そう魂が抜けたように歩かれちゃあこっちまで気が抜けちまうよ。ホラ、しっかり村長の家を捜して。この村に、もしかしたらいるかもしれないんだから・・・。」
この村にいるのかもしれない、貴鬼は、その言葉に別の意味で反応した。そして箒を抱きしめると、とてつもない不安と孤独に立ち往生してしまった。
「貴鬼。」 先を歩いていた魔鈴は、数歩戻って貴鬼の顔を覗き込んだ。 「一体全体どうしたのさ。」
すると、不意に貴鬼の目に涙が溢れて、口の端が痙攣を起こした。貴鬼は顔を隠す風でもなく、顔を真っ赤にして胸のうちを吐き出した。
「――フィオナがいないんだよぉ!!!」
「フィオナ?」
魔鈴はその名に覚えがある。いや、サンクチュアリに知らない者はいない・・・。かつて、教皇の間に仕えていた、美しいという噂の魔女だ。しかし、貴鬼とフィオナの繋がりを知らない魔鈴は別の人物だと思い込んだ。
「それで、お前はムウにそのフィオナって娘を捜すように言われてるのかい?」
貴鬼は涙が吹き飛ぶほど激しく首を横に振った。
「違うよ!! おいら、ジャミールに帰れって・・・。ジャミールに帰って、フィオナの側にいてやれって、ムウ様に言われたんだ!!でも、でも、帰ったら館にフィオナがいなかったんだ! フィオナ、箒がなくちゃどこへもいけないはずなのに・・・。
一晩中ジャミールをくまなく捜してみたけれど、どこにも・・・。ううん、ジャミールにフィオナの気配を感じなかったんだ。それで・・・テレキネシスを駆使していろんな場所を透視したけれど、やっぱりどこにもいなかった。それで、サンクチュアリに戻ってきたけど、もう、ムウ様も誰もいなくて、それで・・・」
「もういい、もういいよ。」 魔鈴は、泣きじゃくる貴鬼を制止した。だが、貴鬼は最後に付け加えた。
「それで、星矢のお姉さんみたいに・・・。フィオナもまた、サンクチュアリに歩いて行こうとして迷っちゃったんじゃないかって・・・。ムウ様に会おうとして、どこかで倒れてるんじゃないかって・・・。こ、この箒、フィオナの魔力がかかってるんだ。だから、近くにフィオナがいたら、見つけて飛んでいくかもしれないだろ。」
ぐっと、貴鬼は箒を魔鈴に押し付けた。魔鈴は仮面の下から箒を見つめた。
「魔力・・・。じゃあ、やっぱりサンクチュアリの 魔女・・・。そういえば、闘いのあと姿を消したと聞いていたけど、ムウの館へ行っていたのか・・・。」
魔鈴は立ち上がった。そして、まだしゃくりあげる貴鬼の頭をこつんとたたいた。
「泣くんじゃないよ。その箒がフィオナにとって大切なものなら、必ず取りにやってくるはずだろ。それに、お前の言ったとおり、意外と近くにいるのかもしれないよ。さあ、歩いて・・・。星矢のお姉さんを探さなくちゃ。」
貴鬼は暫く汚い腕で顔をこすっていたが、やがてこっくりと頷いた。
魔鈴は、かすかに微笑んで空を見上げた。風で巻き上げられる砂が、青空を霞ませている。いや、霞んだように見えるのは、砂埃のせいだけではない。
静かに、月が太陽を覆おうとしていた・・・。
「うわっ!!」
突然の花の奇襲に、聖闘士たちは飛びのくことも出来ずに身をかがめた。一番花に近づいていたアイオリアは、驚きと傷の痛みに、よろけて腰をついてしまった。
その目の前で、黒い影は聖闘士たちの胸の高さまで膨れ上がり、やがて何かの形に収まった――・・・
人だ。
全身を漆黒のマントで覆った人間が、赤い花が咲いていた跡に佇んでいる。小柄な体にマントが大きすぎるのか、またはその中に実体が無いのか―― その顔は、すっぽり覆われて見えない。いや、実際目の前にいるにもかかわらず、不気味なほど存在を感じないのだ。
童虎が思い出したように後ろへ飛びのいた。他の聖闘士たちも慌ててそれに続いた。
7人の聖闘士と、マントの人物が嘆きの壁の前で対峙した。両者無言のままお互いを見据えている。花に姿を変えていた人物は、マントの下から聖闘士たちを窺い、聖闘士たちは、警戒と言い知れぬ戦慄に固唾を呑んで身をひしめき合った。
不意に、漆黒の姿が視界に迫った。電流が体を貫いたように、聖闘士たちは一気に飛びのいてマントの人物を取り囲んだ。
「誰だお前は!!」 「何者だっ!!」 怒号が飛び交う。
(我々は幻影を見ているのか?) そう疑う。拳を繰り出せば、すり抜けて仲間にあたってしまうのではないかと思うくらい、その人物からは気配を感じることが出来ない。暫く、7人は身動きできずにその人物を睨みつけた。だが、マントの人物は一向に動く気配がない。
ふと、シャカが構えを解いて一歩進み出た。両隣のミロと瞬が、見えない糸で繋がっているかのようにつられて身を震わせた。向かい側のムウと童虎は、ますます警戒に身を固くした。
「・・・・。あなたは・・・ あなたは誰だ・・・。」
緊迫したこの状況下で、シャカの声はあまりにも拍子抜けしている。消え入るような、何か、崇高な神仏に触れるかのような、恐れを含んだ口調なのだ。アイオリアは、狐に包まれたようなシャカの顔に目を疑った。
マントの人物が、隠された瞳でシャカの姿を捉えた。そして、静かに頷いたように見えた。
その場にいる全員が息を呑んだ。マントがなびいたかと思うと、その姿からは想像もつかないような白い腕が表れ、そして、顔を覆っている布に手がかかったのである。
まるで、7人の心臓の鼓動が、ジュデッカ神殿に響き渡るのではないかと思うような戦慄だった。不気味な、一秒が何万秒でもあるかのような、重苦しい沈黙の中で、映写機のコマを一つずつ回していくように、聖闘士たちの瞳に、マントの下の素顔が次第に浮かび上がった。
ミロは飛び上がった。シャカはその姿に目を丸くした。アイオリアも始め眉をしかめたが、すぐに驚きの色をあらわにした。
そして何よりも、背後からその素顔を垣間見たムウは、息が止まったようにその場に座り込んでしまった。
暗い神殿の中に、ぼうっと白い顔が浮かび上がっている。月光に照らしだされた雪のように、冷たく透き通った白い肌。つややかに波打つ、豊かな栗色の髪。野に咲く可憐な花を思わせる、薄い唇と形のいい小鼻。
そして、人々を魅了しては悲劇をもたらす魅惑の宝石のように、爛々と、鈍い輝きを放つ真紅の瞳。
「ま・・・魔女」 ミロが瞳を震わせながらつぶやいた。
「サンクチュアリの 魔女!!」
耳元までフードをずらすと、フィオナは瞳を上げてゆっくりと壁の方へ向き直った。いや、驚きにうちひしがれて、腰をついているムウの方へ。そして、音も無く歩み寄ると、神に祈りを捧げるようにムウの前に跪いた。唇がわずかに動いたかと思った刹那、その頬を、一粒二粒真珠が伝い落ちた。
「ムウ様・・・。」
ふっ、と、甘い蜜の香りがムウの顔にかかった。いつの間にか、フィオナがムウの肩に頭を垂れている。細い手が、戦いでちぎれたムウの髪を優しく撫でた。
「よくぞ・・・ よくぞここまでご無事で来られましたね、ムウ様・・・。」
首筋にかかる熱い息に、ムウは思わずフィオナの背に手をあてた。抱きかかえても未だ幻覚のような気がするが、辺りに立ち込める香りと、手の感触は間違いない、フィオナのものだ。
ムウは、幻影が消えてしまわないようにもう一度フィオナを抱き寄せた。
「フィオナ・・・。フィオナではないか・・・。どうして、何故ここにあなたがいるのだ・・・。死の淵に立って、私は夢を見ているのか・・・?」
フィオナは顔を上げた。美しく目を潤ませ、ムウを慈しむように見つめてそっと笑みを浮かべた。
「いいえ・・・ 夢などではありません。幻覚などではありませんよ。ムウ様、フィオナはここにいます。あなたの胸に、こうして再び戻ってきたのです。」
ムウはその顔を覗き込んだ。赤い瞳に、自分の顔が映っているのを見ると、突然夢から覚めたように、ムウは身を震わせてフィオナを引き離した。肩に手を置いて、再び確かめるようにフィオナを凝視すると、勢いよく飛び上がった。
「フィ、フィオナッ・・・!! 馬鹿な! あなたはジャミールにいるはずではないか!貴鬼を帰した。貴鬼と2人で館にいるはずだ! 冥闘士か! 私の心を惑わそうと、フィオナの姿を借りているのか!」
「ムウ様っっ!!」
ムウは飛びのいた。動揺の色を顔に浮かべながら、フィオナに対して戦闘態勢を取った。フィオナは絶望に顔を青ざめ、尚ムウの方へ進み出た。
「くっ・・・!!」 身構えるムウ。フィオナは思わず立ち尽くした。
「・・・私がおわかりになりませんか。偽者と本物の区別もつかないほど、あなたにとって私は小さい存在なのですか。ムウ様、良く私をご覧になってください。フィオナはここにいます!!」
「だっ、黙れえぇっ!!」
突然、ムウは目を閉じると猛然とフィオナに飛びかかった。フィオナはひるむことなく必死に腕を広げた。
「フィオナはこんな地獄などにいるはずが無い!! 消えろ幻影!」
――スターライト・エクスティンクションッッ!!
閃光が走った。ムウの姿も、フィオナの姿も光の中に見えなくなった。
だが―――
「むっ!!?」 アイオリアはその中に何かを見た。
フィオナの顔に、長いブロンドの髪がかかった。ムウは、掴まれた自分の腕に目を見張った。
シャカだ。シャカが、フィオナをかばってムウの拳を寸止めしたのだ。そして勢い良くムウを突き飛ばすと、痺れる腕を抱え込んだ。
「ム、ムウ、彼女はフィオナだ。・・・本物だ!」
壁に激突したムウは、シャカの言葉に身を乗り出した。シャカの後ろで、ミロとアイオリアが顔を見合わせた。
シャカは、静かにフィオナの方を向くと、何を思ったかその場に跪いた。
「シャ、シャカ!?」
その場にいる全員に動揺が走った。だが、シャカは床に目を落としてフィオナに礼を尽くした。
「一体どうなってるんだっ?」 それまで事態を傍観していた星矢が、痺れを切らして進み出た。
「突然花が人間に変わったかと思うと、噂に聞いたサンクチュアリの 魔女だって?それに、何だってシャカが頭をさげなくちゃならないんだよ!?」
6人の視線が、跪くシャカに注がれた。シャカは瞳を開くと、フィオナの顔を仰いだ。
「それは・・・ この方が、私の守護神だからだ。」
「守護神だって!?」
「そうだ・・・。」
シャカは立ち上がった。
「この方こそ、乙女座の女神、ペルセフォーネなのだ!」
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ハーデス編3
前へ:id:witchsanctuary:20120722
嘆きの壁に刻まれた王と王妃のレリーフが、聖闘士たちのざわめきに耳を傾けている。
シャカはフィオナに目を向けた。フィオナも、そっと目を細めた。
「ペ・・・ペルセフォーネ?」 瞬が、その姿に身を乗り出した。
「そ、そうか・・・。乙女座の乙女像は、作物の女神デーメテール、もしくはその分身であるペルセフォーネ・・・!もし、その人が本当にペルセフォーネなのならば、星座を守護神としてもつ僕たち聖闘士にとって、星座の像はまさに神!」
シャカは静かに頷いた。
「――私の前に赤い花びらが現れた瞬間から、絶対的な、私の運命を司っているような威厳をこの方から感じていたのだ。そして、フィオナとして正体を明らかにした時、全ての謎が解けた・・・。そして同時に、なぜあの時、この方に不吉な闇の兆候を感じたのかもな・・・。」
ムウは思い出した。フィオナを連れてサンクチュアリを去る時、シャカが残した忠告を。
「ま、待って・・・。」 再び瞬が口を挟んだ。
「確か、ギリシャ神話では・・・。神話の中では、豊穣の女神ペルセフォーネは・・・。」
「そうです。」
不意に、フィオナが瞬の言葉を遮った。瞬を含めた聖闘士たちは、思わず後ずさりした。ムウは嘆きの壁に身を預けたまま、次の言葉に耳を伏せたいような衝動に駆られた。
震撼とした雰囲気に、フィオナは一旦瞳を閉じて、嘆きの壁を仰いだ。向かい合った夫婦の像の下に、ムウが立ち尽くしている。フィオナは、どちらも正視できずにうつむいた。
「そうです・・・。私は・・・ 私は、冥界の女王… そして、ハーデスの妻、ペルセフォーネの生まれ変わりなのです!」
絶望の叫びが、ムウの口から迸った。ミロにはムウが嘘だ、と叫んだように聞こえた。いや、ミロ自身の心の叫びなのかもしれない。嘘だ・・・。ミロも、ムウと共に、宝瓶宮においてフィオナの聖なる光を目撃した人物である。あの、崇高な輝き――。氷の聖闘士同士の激突によって凍てついた宮全体を、まさに春の訪れという言葉がふさわしく、その安らぎに満ちた神秘的な力によって甦らせた。あれはまさしく、アテナにさえも引けを取らない女神の持つ力だった。
いや、それ以前に・・・。
ミロも他の黄金聖闘士と同様、度々のサンクチュアリの招集の時にフィオナを目にしていた。ミロが知っているサンクチュアリの 魔女は、その妖艶な魅力の裏に、清楚さを兼ね備えた可憐な少女だった。魔女という事で懸念を示す者もいたが、少なくともミロの目には、一片の曇りも無い、ひたむきに生きる花の姿として写っていたのだ。それが・・・。
「・・・ムウ様!」
フィオナはたまらず、ムウの元へ駆け寄った。そして、床に手をつくムウの顔を必死に覗き込んで訴えた。
「ですが、私はフィオナですっ! ――ムウ様、あなたのおかげで、フィオナは留まることが出来たのです!あなたが私を救ってくださったお陰で・・・。私に、小宇宙を分け与えてくださったお陰で!あなたの小宇宙が、ハーデスが意図したペルセフォーネの覚醒を阻んだのです。だからこうして、あなたの元へ帰って来られた。あなたの温もりに触れることが出来た!」
ムウは肩を震わせ、目を伏せたまま拳に力をこめた。
「う・・ うう・・・ フィオナ・・・!! 私は・・・ 許してください、フィオナ! 私は逃げていたのだ、あなたから!あの時も、そして今も! あなたに拳を・・・! 何という事を、私は・・・!」
「いいんです、気になさらないで・・・! さあ、顔を上げて、どうか私を見てください。私はここにいます。決してお側を離れはしません。」
一瞬の間を置いて、ムウは顔を上げた。ムウの姿が真紅の瞳に、フィオナの姿が宇宙をたたえたムウの瞳に浮かび上がった。
フィオナは、瞳に一段と輝きを増して続けた。
「――私が何故、花に姿を変えてハーデスの元からこのジュデッカヘ逃れてきたか・・・。それはムウ様、あなたの小宇宙を感じたから・・・。私の中のあなたの小宇宙が、共鳴を起こしたからなのです。私も共に戦います。もう、運命に翻弄されるのは嫌です・・・。だから、今度は私自ら戦います!孤独を祓うために。愛する人との未来を手に掴むために!」
もはやムウは何も言わなかった。すがりつくフィオナを突き放すような真似は、もう二度としない・・・。
フィオナはやがて静かに立ち上がると、事態を見守る聖闘士たちの顔を一人一人見渡した。
「私が皆様をエリュシオンまでご案内します。幸い、アテナの侵入の騒ぎで、ハーデスは私がいなくなったことに気がついてはいません。――ですが、油断は禁物です。今、私はハーデスに感づかれないよう気配を消していますが、皆様を壁の向こうへ連れて行こうとすれば、当然力を発動することになる・・・。そうすれば、ハーデスは聖闘士がこちらへ向かうことを知り、エリュシオンへたどり着く前に皆様を異空間へ放り出そうとするでしょう。私も力の限りそれを食い止めます。しかし、ハーデスの力は強大です。全員が無事エリュシオンへ行くためには、皆様の小宇宙が不可欠になります。よろしいですか、皆様・・・。」
「当然だ!」 アイオリアが奮然と答えた。その隣から童虎も進み出た。
「ペルセフォーネ、いや・・・ フィオナ、聖闘士を代表して礼を言う・・・。貴女が、アテナと共に地上のために戦う事を選んでくれたことを。」
「アテナのために、そして、私の守護神のために戦おう。」 シャカも静かに笑みを浮かべた。
ミロも瞬も頷いた。ムウはフィオナと視線を交わして微笑んだ。星矢がアテナの聖衣を握り締めて啖呵を切った。
「よおし! 行こうぜ!! アテナの元へ!」
その時、突然背後で低い笑い声が響き渡った。
振り返ると、門のところに誰かが立っている。逆光で良く見えないが、黒光りする冥衣を纏っているところを見ると冥闘士のようだ。冥闘士は重い足音を立てて、8人の方へ歩み寄ってきた。
「おっ お前は、天貴星のミーノス!!」
聖闘士たちは一斉に身構えた。ミーノスは不敵な笑みを浮かべて尚近づいてくる。そして、一定の距離まで来ると立ち止まった。
「これはどういう事ですかな、――女王陛下。」
ミーノスは、ムウの影に佇むフィオナを一瞥した。その前にシャカが立ちはだかった。
「見ての通りだ。我々は今から、ペルセフォーネの導きによってエリュシオンへ向かおうとしているのだ。ハーデスを打ち倒すためにな。」
「ハーデス様を打ち倒すだと・・・?」 ミーノスは再び、不気味な笑い声をあげた。
「愚か者どもめ。冥界の3巨頭であるこのミーノスが来た以上、貴様らをみすみすエリュシオンへ行かせると思っているのか?」
星矢が歯軋りをして食いついた。
「愚か者はどっちだ! 冥界の3巨頭だろうが何だろうが、この面子相手に一人で勝てると思っているのか!」
「馬鹿な、貴様らが何百人かかってこようとも、このミーノスの相手ではない。ましてや、満身創痍の黄金聖闘士が数人と、最下級の青銅がそろったところで何になる。潔く死を受け入れるのだな、アテナの聖闘士よ!貴様らの悪運もここで尽きるのだ!」
「ま、待ちなさいミーノス!」
聖闘士たちをかきわけてフィオナが進み出た。その姿に、ミーノスは薄く笑みを浮かべた。
「これはこれは女王陛下・・・。この場合、私は跪いた方が良いのでしょうか? 貴女様が、我々が敬うべき冥界の女王ではなく、愚かにも聖闘士に味方する“フィオナ”であるにしても…。仮にも、ハーデス様がお慕いなさる方だ。」
「・・・ミーノス、お願いです、下がってください・・・。」
「フィオナ・・・!」 童虎は飛び出そうとするムウを抑えた。ミーノスは尚のこと、愉快気にほくそえんだ。
「お下がりなさい、フィオナ殿。ハーデス様に反旗を翻した者は本来ならば死罪に値するが、まさか貴女を裁くわけにはいかない。貴女には聖闘士どもを始末した後、エリュシオンへ帰ってもらう。さあ、おどきなさい!」
「どきませんっ! それに、この方たちを殺させたりはしませんよ! どうしても去らないというのなら、私もそれなりの対応をしなくてはならなくなります!」
ミーノスは笑みを浮かべたまま、目を見開いてフィオナを見た。その表情は、身の毛のよだつような不気味さだ。
「それなりの対応ですと? 笑止、神として完全な復活をとげなかった貴女に何ができる?そもそも、ペルセフォーネ様は戦いの力をお持ちでない! ――さあ、どかないというのなら、彼らと同じ目にあいますよ!」
突然の悲鳴に、フィオナは振り返った。今まで背後にいたはずの聖闘士たちがいない。嘆きの壁に沿って目を上げていくと・・・。
思わず、フィオナは悲鳴をあげそうになった。7人の聖闘士が、宙に浮いている。それも、糸で天井から吊り下げられているように、もがくこともできずに身を委ねている。
「コズミック・マリオネーション。」 ミーノスは得意げに聖闘士たちを見上げた。
「見えない糸に掴まった者は、操り人形の如く美しく死の舞を舞うのだ・・・。」
「ミーノスッッ!!」
「聖闘士に味方したことを悔いなさい! さて、誰から血祭りにあげよう。・・・やはり、ハーデス様のお后に手を出した、罪深きアリエスからか・・・?」
「ミーノス、どうあっても・・・!!」
「死ね、アリエスッ!! 貴様の首、もらった!!」
ミーノスの指が動いた。振動が、見えない糸を伝ってムウの首へと走って行く。そして―――
床に物が落ちる音がして、ムウが身を横たえた。いや、アイオリアも瞬も―― 7人の聖闘士が、一斉に床に落ちてきた。
「何!!?」
ミーノスは、意外な事態に指先の感触を確かめた。切れている。聖闘士たちを捕らえていた糸が全て。
ミーノスは信じられないという目つきで、目の前の人物に視線を注いだ。黒いマントから顔だけを覗かせているフィオナは、眉をしかめて床を睨んでいる。やがて、聖闘士たちが身を起こし始めると、静かにミーノスの方へ向き直った。
「うっ!?」 その赤い瞳と目が合った瞬間、ミーノスはたじろいだ。
「ばっ・・・ 馬鹿な! まさか、この娘が私のコズミック・マリオネーションを破ったというのか? それに何なのだ、この威圧感は!? 今まで気配すら感じなかったこの娘から、私の小宇宙が萎縮するほどの強大な力を感じる! こ、これは・・・ あり得ん! しかし・・・ 何故だ!! この威圧感は、ハーデス様にも匹敵するほどのものだ!!」
フィオナは一歩進み出た。ミーノスの体は、金縛りにあったように動かない。
「し、信じられん!! この私が・・・ この冥界の3巨頭である私が、指一本も動かせんとは!!」
「冥界の3巨頭・・・。」
聖闘士たちは、フィオナの後姿に目を見張った。ミーノスのものだけではない、この場にいる全員の小宇宙が、フィオナに呑み込まれているようだ。清らかなフィオナの声も、胃が震えるほどの重圧に満ちている。
「そう・・・ ミーノス。あなたが3巨頭であるからこそ、私は力を使わねばならないのです・・・。ハーデスに与えられた、魔女の力を。」
「ま・・・魔女」
「忘れていましたか、私が現世では魔女だという事を。あなた方冥闘士が108人まとめてかかってこようとも、この私には指一本ふれることは出来ません。…さあ、このままあなたを葬り去ることは易しいが、私は誰も傷つけたくはない・・・。異次元に飛ばすのも残酷でしょう。ならば、せめてこの冥界の果てまで立ち去ってもらいましょう!」
突然、ミーノスの背後に深い闇が口を開けた。ミーノスは恐怖に顔を凍りつかせたまま、成す術も無く、悲鳴だけを残して暗闇の底へと引きずり込まれていった・・・。
(何と言う強大な力だ!) 7人は固唾を呑んだ。もし、フィオナが冥界の女王として完全に覚醒していたら・・・。そして、敵として自分たちの前に現れていたら。
だが、ハーデスはこの比ではないだろう。むしろ、これほどの力を持つ者が、味方に加わったことは心強いことなのかもしれない。誇り高き聖闘士として、女に危機を救われたことは苦い思いがするが、実際、この状況下では一つでも多くの戦力が必要だ。そして何よりも、今はエリュシオンへ導いてもらわなければならない――。
フィオナは振り返った。聖闘士たちは立ち上がった。
その瞬間、心臓をえぐるような地響きが嘆きの壁に轟いた。
まるで、ジュデッカ自体が地の底へと沈んでいくようだ。地鳴りと共に闇は一層重くのしかかり、かすかに見えた希望の光も、絶望の色へと姿を変えた。
フィオナは勢いよく嘆きの壁へと駆け寄ったが、目眩を起こしたようにがっくりと膝をついた。
「――遅かった・・・。」
フードの下からこぼれたつぶやきに、聖闘士たちは顔を見合わせた。アイオリアが地響きに体を支えながら問い掛けた。
「遅いって何がだ! 何が起こったというのだ、この地鳴りは!?」
一瞬の沈黙が漂った。壁の王と王妃の像が、濃くなる闇の中から8人を窺っている。
「・・・気付いたのです。私が・・・ 力を使ったから。」
「き、気付いたって・・・ まさか!!」 童虎が身を乗り出した。
フィオナが顔をこわばらせて頷くと、不意に地鳴りが止んだ。後には、身を切る冷気のような凍てついた静寂が訪れた。
やがて、地下深くに眠る、破壊神の寝息の如き息遣いが木霊した―――
そこにいたか、ペルセフォーネ・・・
全身の毛穴が縮み上がるようだ。足の指から髪の一本一本までが、絶対的な恐怖を前にして神経を研ぎ澄ましている。シャカは一歩身を引いた。
「ハーデス・・・!!」
ミロは目を見開いて身震いした。星矢も、童虎も、その場にいる全員が戦慄に身を委ねている。蛇に睨まれた蛙とはこの事か―― 先程までの奮起はどこへ行ったのか、聖闘士たちの気力は一気に萎れてしまった。
再び、深い呼吸が響いた。嘆きの壁が、ハーデスの息遣いに共鳴を起こしているようだ。
"神殿において余の勝利を待ち望んでいるかと思ったら、そのような地獄で何をやっている、ペルセフォーネ!"
フィオナは床に手をついたまま、頭上から降り注いでくるハーデスの声に目を瞑った。マント越しに、その薄い背が震えているのがわかる。それでもフィオナは気を張って答えた。
「・・・わかりませんか。アテナの聖闘士たちを、そちらへ導こうとしているのです。」
"何・・・? 何故、貴女がそのような事をする必要がある・・・? 気でも違ったか、ペルセフォーネ。"
「違いません。どうして違いましょう。私は、――私は、あなたが言うペルセフォーネではないのに。」
ハーデスの息遣いがくぐもったような気がした。そして、再びあの恐ろしい地鳴りが遠くで聞こえた。
"むう・・・。では、貴女はわが妻ペルセフォーネではなく、未だフィオナだと言うのか・・・。"
「そうです。」 フィオナは震える膝を抑えて立ち上がった。
「あなたの策略は徒労に終わったというわけです。ペルセフォーネは甦りません。あなたの妻になどなりません!さあ、邪魔をしないで、私たちをエリュシオンへ行かせてください! そして、アテナと聖闘士たちに成敗されるのです、ハーデス!」
聖闘士たちは互いに顔を見合わせた。何を恐れていたのか・・・? 7人は、フィオナを取り囲んで嘆きの壁を見据えた。
"成る程・・・。"
ハーデスは、威勢を取り戻した聖闘士たちをあざけ笑った。
"フィオナよ、貴女は余が与えた力を持って、余にはむかおうと言うのか。確かに、貴女には余に次いで、この冥界を治める力を与えた・・・。その力を持ってすれば、銀河一つを破壊することも可能だろう。だが、忘れたわけではあるまい。"
「うっ!!?」
突然、フィオナの体が宙に浮いた。聖闘士たちの頭上まで、ゆっくりとマントを翻しながら上がっていく。助けにかかったムウも、見えない力に弾き飛ばされた。
"貴女を地上に誕生させたのは余なのだぞ。余は、貴女にとって夫であるばかりでなく、父親でもあるのだ。見たまえ・・・。"
ふわりと、フィオナの身を覆っていた漆黒のマントが床へ滑り落ちた。
聖闘士たちは、思わず息を呑んだ――
冥界の暗闇に、目を射んばかりのまばゆい光を放ちながら、高貴な白百合が突如花開いたのである。
陰気な漆黒のマントの下に隠されていたのは、全身に真珠を散りばめたような、純白の花嫁だった。透明なヴェールが乙女の柔肌を包み込み、優雅に流れるシルクのドレスは、まさに王女にふさわしく気高い。
そして、普段から人間たちを魅了してやまない真紅の瞳は、粉雪に包まれた宝玉のように、清廉な輝きを放っている。
星矢は、自分の瞳孔が大きく開き、心臓を掴まれたように全身の力が奪い取られていくのを感じだ。高貴な白百合ばかりが視界を占め、やがて、その意識は深い泉の底へと吸い込まれていった――
"これこそ、美の極みと言わずに何と言うのだ・・・。世界の覇者となるこのハーデスの后にふさわしい、最も美しい肉体を、余自ら創りあげたのだ。美の女神アフロディーテも、貴女の前では色あせてしまう。"
…さあ、無垢な花嫁よ、貴女だけならば嘆きの壁を通そう。貴女に焦がれるこのハーデスの元へ、戻ってくるのだ。"
淡い光を散りばめた白い蝶は、静かに地面へ舞い降りた。その姿を、聖闘士たちが穴のあくほど見つめている。
その中で、シャカが一人進み出た。
「ハーデス! アテナをどうした!」
壁に刻まれた王のレリーフが、シャカに目を向けたような気がした。再び低い呼吸が木霊する中で、シャカは膝をつく花嫁にそっと手を置いた。
"ほう・・・。一人だけフィオナの魔力に当たらなかったか。
魔女は、その魔性の魅力によって男を誘惑し、その精力を吸い取ったと言う。見る者の魂までも魅了するようなフィオナの美しさは、一つはそこにあるのだ。ましてや、冥界の女王としての力に目覚めた今となっては、見ろ、他の聖闘士どもはその魔力に魂を抜き取られている。
しかし、さすがは最も神に近い男と言ったところか、シャカよ。"
「ハーデス・・・。」
食いつこうとしたシャカの傍らで、フィオナが消え入るような声でつぶやいた。
「何故です・・・。何故、私を魔女として地上に誕生させたのです・・・。清らかな肉体を好むあなたが、どうして妻には魔女の肉体を与えたのですか。そうまでして、ペルセフォーネを手に入れたいのであれば、始めからエリュシオンに誕生させておけば良かったのではありませんか?何故、魔女として地上に放り出したのです、ハーデス!」
花嫁の悲痛な叫びに、シャカはその姿を見下ろした。フィオナは床に手をついたまま、ヴェールの下で悲しみに肩を震わせている。何か、暗い記憶の影がフィオナを襲っているようだ。
「何故です・・・。何故・・・。」
"・・・全ての生と死を司る余にとって、貴女を冥界に誕生させることは容易いことだ。だが、天界にはゼウスがいる。もちろん、ゼウスの力を恐れたのではない。しかし、ペルセフォーネの魂を天界より転生させることは、神話の時代の時の様に、また、ゼウスの干渉を招きかねんのだ。
だから、余は時が来るまで、肉体となるべき娘の中に、ペルセフォーネの魂を眠らせておくことにしたのだ。時が熟せばこの冥界に迎え、ペルセフォーネとして覚醒するようにな。どうやら、それには何か障害が生じているようだが・・・。"
フィオナは顔を上げた。その瞳には、悲しみとも憎しみともいえぬ、深い敵意が満ちている。
「ならば、何もその肉体を、魔女に仕立てる必要は無いではありませんか!」
フィオナの声が神殿に響きわたるような叫びだったせいか、それまで、呆然とフィオナに目を置いていた聖闘士たちは、夢から覚めたように生気をとりもどした。再び、フィオナの姿に目もくらむような感覚を覚えたが、その魔力をどうにか振り切って、目の前の事態を探った。
「フィオナ・・・。」
ムウも同様、正気を取り戻したようだ。シャカに目を向けられると、少し気まずそうにフィオナの側へ歩み寄った。
不意に、あの息遣いが木霊した。聖闘士たちは嘆きの壁に身構えた。
"よほど、魔女の体に不満があるようだな、フィオナよ。フ・・・ そうだろう。魔女は、決して人間に受け入れられぬ存在だからな。心底、人間どもが憎いだろう? フィオナ・・・。"
フィオナは唇を噛み締めた。ムウは、ハーデスの言葉に驚くと同時に、ふと、ある記憶を呼び起こした。十二宮で、魔女という理由でフィオナが捕らえかけられた時、フィオナに見た、凍てついた心を。
"フィオナよ、貴女はまだ父親を探しているのか?"
はっ、と、一瞬にしてフィオナの顔が蒼白になった。ハーデスは低い笑い声とも取れる息をした。
"父親は死んだぞ。あの日、貴女を人間どもから守ろうとしてな!! 貴女にとって人間は、どこまでも冷たく、憎い存在であったはずだ!
ならば、その人間を守ろうとする、アテナに加担しようなどという愚かな考えは捨てて、余と共に穢れなき世界を創ろうではないか。エリュシオンには、貴女を悲しませる事は何も無い。そして、余が創る世界には、貴女の父を死に至らしめた、愚かな人間どもは一人残らずいなくなるのだ!"
フィオナの薄い唇から嗚咽が漏れた。激しく肩で息をついて、涙を流すわけではなく、全身で悲しみをあらわにしている。
「・・・・・・。・・・・。・・・あなたは・・・ それではあなたは、私に人間を憎ませるために魔女の肉体を与えたのですか・・・。」
"それは違う。余は、貴女を苦しめる気など微塵も無かった。魔女がために辛い思いをするだろうということは、不覚だったと認めよう、考えもしなかったことだ。
ただ、余と共にこの世界に君臨する女王として、ふさわしい力を与えるために、魔力を持つ魔女の肉体を創り出しただけなのだ。だが、フィオナよ・・・。貴女は人間を憎んでいると認めたな。"
「憎んでいます。どれほど憎みつづけてきたことか、この魔女の体を! 魔女という運命に生まれたことを!ハーデス、私が憎むべき相手はあなたでした。あなたが、私に魔女と言う運命を強いた。・・・あなたが、私から大切なものをことごとく奪っていった!」
"違う! 貴女に過酷な運命を強いたのも、大切なものを奪っていったのも人間だ!災いや醜い人間の行動を、魔女の仕業と決め付ける、脆弱な精神をもった人間達だ!さあ、こちらへ来るのだ・・・! 汚らわしい聖闘士どもから離れるのだ!"
「いいえ離れません! もう、魔女の運命に翻弄されるのはたくさんです! 私はアテナと共に戦う!そして、未来を・・・ 愛する方との未来を、今度こそ手に入れてみせる!」
"愚かな! 魔女が愛した男は、皆死に絶えるのだ。それは、余の力の及ぶところではない、魔女の宿命なのだ。
地上において貴女に幸せはあり得ない。フィオナよ、貴女が望むなら、貴女の父親も共にエリュシオンで暮らせるようにしよう。地上が貴女に何をした?裏切りの故郷より、約束された栄華を選ぶのが賢い選択というものだ!"
「人は、星の運命の下に生まれると言います。私にとってその星が、ハーデス、あなたの妻になるべきものだったとしても、人は生きている限り、自ら運命を切り開いていけるはずです!父は言いました。どんなに辛く当たられても、決して誰も恨むなと。自分を誇りに思って生きていけと!
私は誰も恨んではいません。恨むのは私の運命、そしてハーデス、あなたです。けれど、もう恨む必要は無い・・・。ハーデス、私の運命の根源であるあなたを断ち切ることによって、この呪われた宿命も変わるはずですから!私は運命と戦います! もう、逃げはしません! 自分で歩む道は決めます!」
「フィオナ・・・!」
闇へと消えて行った希望の光が、再び聖闘士たちの心を照らし出した。あれほど、とてつもなく巨大に感じていた嘆きの壁も、はらわたがちぎれそうなほど恐ろしかったハーデスの息遣いも、本来の勇気が甦ることによって、越えられないものではなくなってきた。
そうだ、どんなに何もかも失っても、人間に最後まで残されるのは希望であるはずだ。この、絶望の地冥界において、真の正義と勇気をもった聖闘士たちすらも、希望を忘れかけていたのだ。だが、それもとりもどした・・・。そうさせる何かの力が、少しずつこのジュデッカに満ち始めているのだ。
フィオナは立ち上がった。木霊するハーデスの呼吸も口惜しげだ。
"ぬう・・・、ならば、貴女が手を貸そうとしている聖闘士どもの息の根を止めてくれる!"
「あなたの思い通りにはさせないと言っているのです、ハーデス!!」
次へ:id:witchsanctuary:20120720
ハーデス編4
前へ:id:witchsanctuary:20120721
サンクチュアリ―――
地上に残った聖闘士たちは、刻々と進む日食に不吉な予感を覚えていた。もしかすると、このまま、二度と太陽が顔を覗かせないのではないか・・・。
「お姉ちゃん、早く。」
そのサンクチュアリへと続く岩肌の道を、箒を抱えた貴鬼は一人の少女と歩いていた。東洋人だろう。貴鬼が数歩先でせかすのをうつろに眺めながら、とぼとぼと頼りなく足を進めている。
そう、この少女こそが星矢の生き別れた姉、星華だった。魔鈴と貴鬼がこの数日間、サンクチュアリ近辺の村を訪ねて回って、ようやく見つけ出したのだ。魔鈴は一足先にサンクチュアリへ行っている。
「お姉ちゃん、この先のサンクチュアリで星矢の仲間が待ってる。わかるかい?星矢ってのは、お姉ちゃんの弟なんだぜ。星矢は、今冥界で戦ってるけど、すぐにサンクチュアリへ帰ってくるんだから!」
少女は反応が無い。6年前、サンクチュアリへ聖闘士になるために派遣された星矢を追って、命からがらたどり着いたが、途中で力尽き、村人に救われたときには全ての記憶をなくしていたのだ。くしくも、姉弟は6年間同じ地にいながら、互いを知ることは無かったのである。
その時、春の暖かいそよ風が貴鬼の頬を撫でた。
「アッ・・・!!?」
貴鬼も、そして星華も思わず足を止めた。なぜなら、貴鬼が後生大事に抱えていた箒が、突然旋回し始めたからだ。ついには貴鬼の手を離れ、狂ったように乱舞し始めた。
貴鬼は、その姿を眺めながら胸の鼓動を手で抑えた。
「箒が・・・ 箒が反応してる!! フィオナを見つけたんだ!!」
箒に負けないくらい貴鬼は小躍りして、不規則に飛び回る箒の跡を追った。だが、箒は数メートル進んではまた引き返し、その場で弧を描いては、また別の方向へと走り出していく。
「おかしいなあ、何だかフィオナのいるところがわからないって感じだ。」
箒の行動に、貴鬼は眉をひそめた。
突然、箒は呆然と佇む星華の方へ突進したかと思うと、今度ははじかれたように岩に激突して、再び上昇した。そして何を思ったか、宙で動きを止めると、勢い良く柄から地面へ落下した。驚いて貴鬼が駆け寄る間も、何度も箒は地面に墜落を繰り返した。
「な、な、なんだっ!? そんなにぶつかったら折れちゃうよ!!」
手で抑えようとしても跳ね飛ばされるので、貴鬼はテレキネシスで箒の動きを止めた。それでも、箒は地面へ体当たりしようともがいている。苦心する貴鬼に星華は近づいた。
「・・・・土の中に・・・ 地下に、何かあるんじゃないかしら・・・?」
星華の言葉に、貴鬼は一瞬にして顔色を失った。
「まっ・・・ まさか、この下にフィオナが埋まっているっていうの!?」
日食で陰る青空に、土埃が立ち上った。貴鬼が念力で土を掘り返しているのだ。だが、当然、掘っても掘っても何もでてくるはずはない。それでも、依然として地面を指し示し続ける箒に、発掘をあきらめた貴鬼は視線を投げかけた。
「この箒、気がおかしくなったのかなあ。地面の下には何もないのに。あるとしたら、地獄くらい―――。」
その時、人馬宮から流星が飛び立った。いや、宝瓶宮、磨羯宮、金牛宮、巨蟹宮、そして双魚宮から、黄金聖闘士たちの魂が、冥界にいる仲間の元へと加勢に向かって行った。
凍てついた闇に、突如春の光が差し込んだ。春の陽気が雪を徐々に溶かしていくように、その暖かな光は、ジュデッカの闇を覆い尽くすほどに広がっていく。そしてその光は、聖闘士たちの傷つき、絶望に犯されかけていた心までも、優しく包み込んでいった。
まさに、冬の終わり、命の溢れる季節の訪れである。
"な、何・・・!!"
薄れゆく闇の中で、ハーデスの声も次第に深みを失っていく。
"こ・・・ この光は・・・ 馬鹿な! あり得ん!"
純白の花嫁は、もはや暗闇に咲く一輪の白百合ではなく、陽光に満ちた野に咲き誇る、崇高な花の輝きに満ち始めている。
シャカは、自分の中の小宇宙が増大していくのを感じていた。これほどの安らぎと温もりに満ちた感覚は、まさにアテナの・・・ いや、このシャカにとっては、アテナ以上に強く、小宇宙と共鳴し合っている。
ムウは、思わず光に手を差し伸べた。あの、光だ・・・。ミロもまた、同じ記憶をめぐらせているに違いない。
あの時、宝瓶宮においてフィオナに見た光・・・。温もり。それだけではない。十二宮を去る前に、フィオナの歌声がもたらした、サンクチュアリ全域をも包み込むような穏やかな陽気。そして、魔境ジャミールにでさえも花を咲かせる神聖さ。
童虎も、アイオリアも、星矢も瞬も、辺りを包み込んでいく光を見回した。疲れ果てていた肉体が癒されるのを感じながら、ふと、瞬が何かを思い出した。
「そ、そうだ・・・。豊穣の女神、冥界の女王・・・。そしてもう一つ、象徴するものがあったんだった・・・!」
嘆きの壁が、光に完全に照らし出された。フィオナは透明なヴェールをたなびかせながら、一層光に包まれていく。
「春・・・ 新しい命が誕生する、春の訪れの象徴でもあったんだ!」
「こ… これが…」 童虎は柔らかい光に目を細めた。
"ペ… ペルセフォーネ!!"
フィオナは、閉じていた瞳を静かに開いた。その赤い瞳からは、魔女の鈍い輝きは見受けられない。大地に豊かな実りをもたらし、森を駆ければ植物は芽を出し、動物は子を産むという、春の女神、ペルセフォーネなのである。
「わが守護神… ペルセフォーネ…!」
ペルセフォーネは、シャカを見て静かに微笑んだ。遥か神話の時代より、幾星霜の年月を経て、今、乙女座の女神と乙女座の聖闘士が出会ったのだ。シャカは跪かずにはいられなかった。いや、他の聖闘士たちも、その神々しさにアテナに対する敬意と同様の念を覚えた。
ペルセフォーネは慈悲に満ちた表情で聖闘士たちを見つめ、やがて、嘆きの壁の向こうのハーデスへ向き直ると、歌うような声で話し出した。
「ハーデス…。久しぶりですね。神話の時代以来…。直接、貴方にお目にかかれないことが残念ですわ。」
ハーデスの息遣いも、もはやいたずらな春の疾風のようだ。
"う…。馬鹿な… 貴女が覚醒するなど… あり得ぬ! 何故… 何故なのだ!!"
「何があり得ないのです、ハーデス。」 ペルセフォーネはほくそえんだ。
「折角、わたくしが聖者としての力を持って甦ることがないように、天界へ帰ることができないようにと、わざわざ魔女の肉体を創り上げたのに、どうしてわたくしが大地の女神として覚醒をしたのか… それがわからないのですか。」
"そ、それは…! いや、……認めよう…。
しかし、何故なのだ。闇の存在である魔女の体で、聖なる女神である貴女が覚醒できるはずはないのだ。余が与えた魔力は絶対だ。貴女が覚醒する時は、この冥界の存在として覚醒するはずなのだ!
それを阻み、フィオナを留めたものは何だ! そして、貴女を天界の女神として蘇らせしめたものは、一体何なのだ!"
「愛です、ハーデス。」
"愛… 愛だと!? 笑止な! そのようなくだらぬもので、余の力が阻まれるはずはない!"
「可愛そうなハーデス。貴方は愛を知らない人。相手を慈しみ、与え、与えられする情愛を知らずに育った哀れな人。
神話の時代、貴方にさらわれて無理矢理妻にさせられたわたくしが、何故ゼウスに懇願せずに、あえて貴方の妻としてこの陽のあたらぬ冥界に居続けたのか…。それは、貴方に愛を教えるためだったのです。愛の素晴らしさを。欲しいものは奪わずとも、愛というもので手に入れることができるのだということを、知ってもらうために貴方の妻になったのです。
ハーデス…。今回、貴方の策略を妨げたのは他でもない、愛なのですよ。愛とはそれほど強い力なのです。貴方が軽蔑する以上にもっと!」
"愚かな! 愛ほど脆く、憎しみと紙一重なものはない。何かもっと、違う原因があるのだ…"
「愛です。彼女は、冥界へと引きずりこまれる瞬間祈りました。愛する者の名を叫びました。フィオナの一途な愛が、想いが、闇に光をもたらしたのです。ハーデス、闇は光を呑み込んでしまうことはできません。ですが、光はどのような闇でも照らし出すのです。
さあ… ハーデス、今すぐ、グレイテスト・エクリップスを止めなさい! そして、愛を受け入れるのです。そうすればわたくしはこの肉体より抜け出し、貴方の元へと行きましょう。そして、共にこの冥界を治めましょう。アテナを開放し、地上の支配をあきらめなさい!」
"愛など誰が受け入れるものか! それに、その肉体は余が貴女のために創り与えたもの。ペルセフォーネ、貴女こそこちらへ来るのだ!貴女がそこで聖なる力を発したところで、余がいる限り、聖闘士どもが壁をすり抜けてこちらへ来ることはできん!
どうしても来ぬというのなら、そのジュデッカで聖闘士どもと共に、地上が闇に覆われ死の大地へと変貌する様を見届けることになるぞ。どっちに転んでも、貴女は余の妻となるのだ。そして、アテナも聖闘士も、全て死に絶えるのだ!"
「く、くそっ!」
嘆きの壁を取り囲んでいる7人は地団駄を踏んだ。絶望の影も失せ、傷も癒えて、確かな希望が戻ってきたはずなのに…。ハーデスが阻んでいるために、ペルセフォーネに従って壁を通り抜けていくことはできない。かと言って、全員の小宇宙を合わせたところで、この壁を破壊するのは不可能だということは実証済みである。万事休す、か。
シャカは花嫁姿の女神を見つめた。その後姿に、もう一つの女神の姿が重なった。アテナ…。
シャカは意を決して唇を噛み締めた。ふと、その横をアイオリアが進み出た。ムウも、童虎も、そしてミロも…。星矢と瞬も顔を見合わせて、ペルセフォーネに歩み寄った。
7人の思いは一つ…。聖闘士は決してあきらめない。敵わずとも、せめて一矢は報いるのみ!後は、こちらへ向かっている氷河や紫龍が、必ずやハーデスを打ち倒してくれるはず…。
その時、天空から天使の羽が舞い落ちてきた。聖闘士たちの顔へ、聖衣へ、柔らかな純白の羽は、優しい香りを放ちながら降り積もっていく。
一枚の羽が、ムウの手に止まった。ムウは気付いた―― 羽ではない… 花びらだ。
7人の視線が一斉にペルセフォーネに注がれた。花びらは、天空から舞い落ちてきたのではない。
ペルセフォーネが、水をすくうように口元で両手を合わせてそっと息を吹きかけると、白い花びらが手から溢れ出て、春の穏やかな風に乗り、辺り一面を覆っていくのだ。見る間に、漆黒の床は真っ白な花びらの海に変わってしまった。
「皆様… 言ったはずです。私が、必ず皆様をエリュシオンへ連れて行くと…。」
「フィオナ…!?」 ムウは、花びらを舞わせながらフィオナに駆け寄った。
フィオナは振り返った。その小顔にこぼれた笑顔は、幸せな日々に咲いていた、ジャミールの花だった。
ムウは、嘆きの壁の向こうのハーデスも、背後に控える仲間のことも忘れて、強くフィオナを抱き寄せた。フィオナも恥じる様子も無く、素直にその胸に顔をうずめた。
暫し、2人は花園にたたずむ青年と少女になった。出会った奇跡を喜び合い、変わることの無い未来を囁き合う、地上の美しい一つの愛の姿に。だが、それは永遠ではない。いや、その永遠を手につかむために、2人はお互いに身を引いた。何も言葉を交わさずとも、目が全てを語っている…。
共に、生きよう…
穀物の女神デーメテールは、悲しみのあまり、大地に実りをもたらす仕事を放棄して洞窟に閉じこもってしまった。植物は枯れ果て、生き物は絶滅の危機に瀕した。
ある日、地上に散策に出てきた冥界の王ハーデスは、美しい野原で花を摘んでいた、デーメテールの一人娘、ペルセフォーネを一目見て恋に落ちた。どうしても彼女を妻に娶りたくなったハーデスは、ペルセフォーネを冥界へ誘い込むことにした。
森を1人歩いていたペルセフォーネは、突如目の前に開けた花園に、見たことも無いような美しい花を見つけた。一つの茎に何百もの花をつけた、真っ白な水仙の花だ。その花は、ペルセフォーネを呼び寄せるように花びらを舞わせている。
ペルセフォーネは花を摘み取ろうとした。だが、以外にも根は深く、茎は硬い。ペルセフォーネは夢中になって花を引っ張った。
その瞬間、突然地が大きく裂け、真っ黒な闇から、漆黒の馬にまたがったハーデスが飛び出してきた。そして、ハーデスはただ驚くばかりのペルセフォーネを捕らえ、そのまま地下深くへと連れ去っていってしまった。
「おかあさま!」
ペルセフォーネは必死に母を呼んだ。だが、時すでに遅く、美しい娘は陽のあたらぬ地獄へとさらわれてしまったのである。
後には、ハーデスの邪気によって黄色に変色した、黄水仙が残されていたという。
娘の誘拐を知ったデーメテールの嘆きによって、地上が枯れ果ててしまうのを懸念した天界のゼウスは、冥界へ使いを送り、ハーデスにペルセフォーネを地上へ帰すよう促した。
ハーデスはしぶしぶそれを了解し、ペルセフォーネを地上へ帰すことにした。ペルセフォーネは大変喜び、数日間何も口にしていない空腹感を思い出した。
そこへ、真っ赤なざくろの実が差し出されたのである。
地上へ帰れる喜びに、つい警戒を解いてしまったペルセフォーネは、その実を4粒も食べてしまった。その様を見たハーデスは、密かに笑みを浮かべた… 冥界の食べ物を口にした者は、二度と地上へ帰れない体になってしまうことを知っていたからである。
最愛の娘が地上に戻れぬ体になったことを知ったデーメテールはなおさら嘆き、もはや、地上が死の大地へと変貌を遂げるのは時間の問題だった。
そこで、ゼウスはハーデスに提案をした。
ペルセフォーネが口にした4粒分の期間、つまり4ヶ月間を冥界で、残りの8ヶ月間を、地上の母の元で過ごすようにしてはどうかと。
その条件を呑んだハーデスとペルセフォーネは夫婦となり、ここに冥王ハーデスと、その妻ペルセフォーネが誕生した。
ペルセフォーネが冥界へ行ってしまうと、デーメテールは悲しみに暮れて洞窟にこもるため、その間は草木の枯れる、冬が訪れるようになったのだという。
ペルセフォーネが地上へ帰ってくると、デーメテールが洞窟より出てくるため途端に大地は花開き、大地には春が訪れる。
そのため、ペルセフォーネは春の訪れを象徴する女神にもなった。
冥界では亡者たちに慈悲深い女神として、夫と協力しながら地下世界を治めた。
ゼウスの娘ペルセフォーネは、地上では春をもたらす豊穣の女神として、地下ではハーデスに並ぶ冥界の女王として、神話の時代を生きたのである。
ジュデッカを照らし出していた光の色が赤みを増した。聖闘士たちはその眩しさに目を細めた。この、体の底から熱くなるような燦々とした光は――――
"な… 何ぃっ!!?"
不意に、黄金聖衣が輝きだした。黄道12星座の聖衣。これらは、常にある光を浴び続けているのだ。今、その光を受けたことで、蓄積されたエネルギーが燃え出したのだった。
その光とは、この死の世界へは決して届かない光。ハーデスが最も忌み嫌い、地上から奪おうとしている光…
「た… 太陽の… 光だ!!」
ハーデスはうろたえた。自ら創り上げた最愛の娘の体から、忌むべき陽光が発せられている――
"ば… 馬鹿な…! いくら豊穣の女神といえども、太陽の光を作り出すなどできるはずが…"
ペルセフォーネは、熱く燃え盛る瞳をハーデスへ向けた。その瞳は穏やかな春の陽光というよりも、情熱に満ちた灼熱の太陽の輝きだ。そして、それはどこか、フィオナの魔力にも似ている。
「全知全能のゼウスが、みすみすわたくしの魂を天界から盗ませると思っているのですか。わたくしは日光をふんだんに浴びた大地の女神。ゼウスの力を借りれば、太陽の光を作り出すことなど容易いのです。
さあ、貴方の望みどおり、今からこの壁を破壊してそちらへ向かいましょう。そして、アテナと聖闘士たちに討たれなさい!」
"や… やめろペルセフォーネ! 神話の時代、貴女はアテナの聖闘士によって命を奪われたのだぞ!余をかばって…!
その余を裏切り、敵である聖闘士に加担することに何の意味がある! フィオナに苦痛をしいた人間どもを、何故守ろうとするのだ!ペルセフォーネ!!"
「人間が滅ぶべき存在なのかどうか…。それは、少なくとも貴方1人の独断に委ねられるべきものではないでしょう。わたくしは、フィオナを通じて知った。神であるわたくしたちが、知らない… 知ることのない、数々のことを…。
ハーデス…! どうか、恐れずに心を開いてください…! わたくしが貴方を裏切ったと思うのならば、それはそれで構いません。それでも、わたくしは… わたくしは、フィオナの幸せを守るために…、父ゼウスの命を果たすために貴方を止めてみせる!!」
銀河に煌々と光り輝く太陽の光が、ゆっくりと嘆きの壁を侵食し始めた。あれほど強大で、絶望の象徴というにふさわしかった嘆きの壁が、長年の年月が一気に押し寄せたかのように亀裂を刻んでいく。
"ペルセフォーネエェェ―――――ッッ!!!"
アテナ……
アテナ… 聞こえますか… アテナ…
今からそちらへ、あなたの聖闘士たちを送ります…
どうか、…どうか、孤独なあの人を止めてあげてください…
床一面の花びらが、疾風に舞い上がった。
それは、大地の勝利を祝福しているかのように見えた。冥界を揺るがすほどの轟音も、嘆きの壁が崩壊した音だと誰もが思った。
白い光に包まれた一瞬の静寂の後、ひらひら、ひらひら、と、無数の花びらと共に、フィオナの纏っていた透明なヴェールが舞い降りてきた。
再び開けた視界の中には、純白の花びらに包まれて、永遠の眠りについた花嫁の姿が横たわっていた。
次へ:id:witchsanctuary:20120719
ハーデス編5
前へ:id:witchsanctuary:20120720
ムウは駆け寄った。他の6人もフィオナの遺体を取り囲んだ。
美しい――。結い上げていた栗色の髪がはだけて、白い肩に柔らかくかかっている。固く瞼を閉じたその死に顔は、どこか、妖しい動悸を覚えるほど端麗なのだ。ムウが、フィオナの名を叫びながら揺さぶる度に、花びらの香気が乙女の眠りを包んでいった。
「ハ… ハーデス…」 童虎の声も怒りに震えている。
「信じられぬ…。神話の中では、妻の言うことだけには逆らうことが無かったというハーデスが、己の野望のために妻の命を絶つとは…! それほどまでに、地上を欲するのか…! 愛するものを裏切ってまで、地上をっ…!!」
ミロは一番後ろで、ムウに抱えられたフィオナの姿を呆然と見つめた。はじめてサンクチュアリでフィオナを目にしてから、ムウがフィオナを引き取ったという噂を耳にしても、現に2人の仲を目の当たりにしても、今この瞬間まで胸に秘め続けてきた淡い思いは、最も残酷な形で踏みにじられたのである。
「…フィオナッ…! 目を… 目を開けてください…、フィオ――」
ぽとりと、音を立ててムウの瞳から涙がこぼれた。声なき声で、ムウは咽び泣いた。
(ペルセフォーネ…) シャカも、共鳴が止んだ聖衣に手を置いて天を仰いだ。見る間にジュデッカは元の闇に覆われていく。その闇に、シャカの瞳も曇るのではないかと思われた。
「フィオナ…。」
ムウは強く、しかし、優しく、まだ温かみを失わない娘の体を抱き寄せた。出会った時から、絶え間なくムウの心を惹きつけたあの甘い香りが、最後の香気を放つようにムウの顔を包んだ。ふと、フィオナの薄い唇から、かすかに息が漏れたような気がした。だが、ムウの胸を希望がよぎることはなかった。自分の呼吸が、乙女の唇に反射したに過ぎないことを知っているからだ。
そのままムウは瞳を閉じて、額と額を突き合わせた。雫が葉から葉へ伝い落ちるように、涙がフィオナの睫毛をぬらした。
「…星矢、瞬…。」
不意に立ち上がったムウの姿に、星矢はその顔から思わず目をそむけた。だが、ムウはもはや泣いてはいなかった。ムウの流した涙は、フィオナの白い顔に筋を作っている。
ムウは以前の、どこかしら憂いを含んだ穏やかな表情をして、静かに2人に歩み寄った。そして一端瞳を閉じると、花束を贈呈するように腕の花嫁を差し出した。
「フィオナを地上の、日の当たる綺麗な場所に眠らせてあげてください。お願いします…」
星矢は手を拒んだ。瞬と顔を見合わせてもう一度ムウを見上げたが、他の黄金聖闘士たち全員が、自分たちを見つめていることに気がついた。星矢は頷いてフィオナを受け取った。必ず約束は守ると答えたかったが、何故か、胸が詰まって声にならなかった。
途端、頭上に金色の閃光がきらめいた。
射手座のアイオロス、双子座のサガ、牡牛座のアルデバラン、水瓶座のカミュ、蟹座のデスマスク、魚座のアフロディーテ、山羊座のシュラ… 7人の黄金聖闘士の魂が、聖域より加勢に来たのである。幾星霜の年月を経て、12人の黄金聖闘士がジュデッカに集結した。
「老師…」
星矢と瞬は、12人の勇姿を見渡した。童虎は微笑を浮かべると、静かに頷いた。
「貴様ら!」
ジュデッカ神殿の門を出た2人に、黒い影が飛びかかった。
「おっ お前、ミーノス!?」
ミーノスは呼吸を荒げながら疾走してくる。
「あなたは冥界の果てまで飛ばされたはずじゃ…。」
「なめるな! 冥界など庭も当然。すぐ駆けつけるわ! …むっ!?」
勢いで星矢たちをふきとばそうとしていたミーノスは、星矢の腕の白百合を見て足を止めた。
「じょっ… 女王陛下!? 死んでいるのか…? 貴様ら、ハーデス様のお后に何をしたのだ!」
「そのハーデスが、この人の命を奪ったんだぞ! この人は、俺たちをエリュシオンへ導こうとして…。」
「何、ハーデス様が…? …いや、その娘が死んだ今、何の悪あがきをするつもりだ。嘆きの壁をどうするつもりだ!」
ジュデッカへ立ち入ろうとしたミーノスを2人は抑えようとしたが、一撃の下に伏されてしまった。だが、ミーノスが門を空けた瞬間、爆音と共にジュデッカ神殿は跡形もなく崩れ落ちた。
黄金聖闘士たちが少年たちにアテナを託し、自らの小宇宙を太陽と化して、聖闘士の星の下に散っていったのである。
後には、巨大な穴を開けた嘆きの壁と、肉体を失ってもなお輝きを失わない、12体の黄金聖衣だけが残った。
「逝ったのか…。」 駆けつけた紫龍と氷河も感涙に浸った。
「ああ… 逝った…。」
「僕たちに希望を託して…。」
「…そうと星矢、その人は…?」
「ああ、この人は冥界の女王、ペルセフォーネさ…。でも、俺たちをエリュシオンへ行かせようとして、ハーデスに殺されてしまったんだ。でも、そうだ瞬、この人をどうしよう? まさか、背負って行く訳にもいかないし。」
「私が預かっておこう。」
不意に背後でした声に4人は飛び上がった。振り返ると、瓦礫の間にパンドラが立っている。
パンドラは穴の開いた嘆きの壁に目をやることなく、まっすぐ4人の方へ近づいてくる。星矢は身構えはしないものの、腕のフィオナをかばった。瞬も、かすかに警戒の色を浮かべてパンドラを見つめた。
「あなたが預かるだって…? …悪いけど、この人のことはムウに頼まれたんだ。敵の手に渡すにはいかないよ。」
「この先、エリュシオンへは一本道だ。…帰るとき、どうせまたここを通ることになる…。」
「帰るときだと…?」 4人は顔を見合わせた。そして、漆黒の髪を持つパンドラをもう一度見た。
「その方は仮にも冥界の女王。悪いようにはせん。さあ、急ぐのだろう。こちらへ渡せ。」
氷河が何か言いた気に星矢を振り返った。だが、星矢は一歩進み出てパンドラへとフィオナを渡した。
「…頼んだぞ…。お前を信用するかどうかは今は考えている暇はない。俺たちは、一刻も早くエリュシオンへ向かう。・・・アテナの元へ!」
パンドラは4人が穴へ消えていくのを見送ると、平らな床の上へ遺体を寝かせた。
(お后様…) ハーデスに翻弄された自分の過去と、目の前の人とを重ねてみる。 (貴女様は、運命に立ち向かわれたのですね…。何が正しいか、知っておいでだったのですね…。私は… このパンドラは…。)
パンドラは立ち上がった。瓦礫の下からシャカの数珠を拾い上げると、そのままコキュートスの方へ消えていった・・・。
次へ:id:witchsanctuary:20120718
ハーデス編6
前へ:id:witchsanctuary:20120719
ここは… どこだ…
辺り一面に淡い霧が漂っている。その中を、デスマスクは行くあても知らず流れていた。
遥か昔… 決して思い出すことのなかった、母親の胎内にいた頃のことを、デスマスクははっきりと思い出した。自分が何者なのか… どういう人生を歩んできたのか全く思い出せない。ただ、大宇宙に抱かれて眠っていた、そう、生を受けて地上に誕生する前―― 遥か宇宙が形成された時代から、繰り返し繰り返し悠久の時を過ごしてきた、魂の故郷に戻ってきたのだとデスマスクは自覚した。死の世界で恐怖に震えていたことも、今、遠くで自分の名を呼ぶ声がすることも、デスマスクの意識下には無い。ただ、何色とも取れぬ神秘的な霧の中に、魂が溶け込んでいくのを心地よく感じていた…。
―――……ク… ……マ…ク…
だ…れだ…? 霧の奥から聞こえてくる声が、はじめてデスマスクの耳についた。
―――スク… ……デス…ク!
びくんと、デスマスクは身を震わせた。辺りの霧が次第に晴れていくような気がする。次の瞬間、地面に叩きつけられたようにデスマスクの意識は引き起こされた。
「デスマスク!!」
はっ、と、デスマスクは身を起こした。見ると、シュラが自分の顔を覗き込んでいる。
シュラは不思議な格好をしていた。まるで古代人のように、真っ白な布を着流している。それも、神々しく光を帯びているのだ。
だが、辺りを見渡して更にデスマスクは驚いた。シュラだけではない。隣にはアフロディーテ、少し離れたところにシャカと童虎、その向こうにはサガや、何とアイオロスまでいる。
12人の黄金聖闘士たちなのだ。それも、全員がそろいもそろって同じ衣装を着、幻想の野に佇んでいる。誰もが光を帯びているように見えるのは、一面の花々が細かい燐を放っているからだった。
「こ… ここは…?」 デスマスクは立ち上がった。自分も白い布を纏っている。アフロディーテが答えた。
「わからん…。嘆きの壁を破壊するために甦ってから、気がつくとこういう場所にいたのだ。もしかすると、天国かもしれんが…。」
「しかし… 俺たちが天国へ昇れると思うか?」 シュラがつぶやく。
3人は押し黙った。考えてみれば、教皇に化けてアテナを葬ろうとしたサガに加担した自分たちが、天国になど来れるはずが無い。その時、背後から燐を掻き分けてムウが現れた。
「おお、目が覚めたか、デスマスク。」
デスマスクは思わず目をそらした―― 白羊宮で、ムウに倒されたからだ。が、ムウはすぐに辺りを見回しながら足早に去っていった。
「何を探しているんだ、あいつは?」
「フィオナさ。」 いつの間にか、ミロがそばに立っていた。
「一足先に天国に行ったはずのフィオナを探しているんだ。だが、この燐の中だ。私たちは共に死んだから偶然居合わせたようだが、どの位の広さか検討もつかぬこの地で、巡り合えるかどうか…。」
4人は他の聖闘士たちに合流した。ムウを抜かして、全員が、改めて顔を合わせたのである。それぞれが生きていた頃の因縁などは忘れて再会を喜び合った。そして、未だ地下で戦っているだろう、青銅聖闘士たちの身を案じた。
不意に、燐の中に人影が浮かんで再びムウが現れた。ムウは全員の顔を見て微笑んだが、すぐ目を伏せた。
「どうやら、この野はどんなに歩いても同じところに戻ってくるようだ…。」
「前にも一度ここへは来たが」 アイオロスが口を開いた。
「どうやったかは覚えていないが、俺はここを抜け出した。アテナの元へ行く一心でな。とにかく走り続けたのか… いや、何かの力によって導き出されたような気がする。」
「兄さん…」 アイオリアは自分より若い兄の姿を見つめた。
死してもなお、瞳を閉じたままのシャカが口を挟んだ。
「おそらくそうだろう。そして、推測だがここは天国ではない…。私は、己の魂の行き場を選ぶ力は持っていたつもりだ。だが、肉体が散った瞬間、何か、巨大な力が私たち全員の魂をこの地まで引き上げたのだ。亡者が行くべき場所ではない、もっと別の空間に…。」
12人は、燐を噴出す花々を見下ろしながら途方に暮れた。決して、居心地の悪い場所と言うわけではないが、アテナの無事もわからない今、こんな燐に覆われた世界に閉じこもってなどいられない。
その時、カミュが天を仰いだ。何かを必死に聞き取ろうとするように、光り輝く燐を凝視している。
「どうした、カミュ?」 アルデバランが尋ねる。カミュはなお燐の向こうへ目を向けた。
「…歌が聞こえないか。」
「…歌!?」 それまで思いに沈んでいたムウが、歌と言う言葉に反応した。
「ああ…。かすかだが、あちらの方から…。聞いたことがある。そうだ、私はこの歌を以前聞いた…!それも、生前ではなく、死んだ後にだ。」
「あちらだな!」
そう言うと、ムウは猛然と駆け出した。他の聖闘士たちも何事かと追っていく。
12人は燐の中を走った。時間や距離の概念が無い世界の中、不思議と疲労は覚えず走り続けた。その間、カミュ以外は誰も歌を聞き取ることはできなかった。ただ、所々カミュが立ち止まっては、方向転換するのに従っていく。だが、走れど走れど、一面の野原、燐に覆われた世界であった。
どのくらい走ったのだろう。おそらく、地上の時間では計り知れない、光速の動きを持つ黄金聖闘士でも気の遠くなるほどの距離を走っただろう。それでも12人は走り続けた。終わり無い世界を。
(フィオナ…!) ムウは先頭を切った。間違いない…。カミュが死後に聞いたという歌は、フィオナがカミュの死を悼み、墓石の前で歌った歌だ。
後ろに続くカミュが行く方向を変えては、追いすがって、ムウはまた先頭に立った。ムウは祈った。 私にも、歌を…! 踏みしめる度に、花々は燐を噴出し行く手をさえぎった。 私にも、歌を聞かせてくれ…! 「こっちだ!」 再びカミュが方向を変える。それでも歌声は聞こえない。
(フィオナ…!) ムウは、疾走するカミュの後姿を無意識のうちに睨んだ。 私にも、あの歌声を…!聞かせてください、この魂に! そして共にあろう。地上では結ばれぬ運命であったのならば、せめて2人星となって、永遠の時を分かち合おう…。
ムウはカミュを追い越して、光の中に飛び込んだ。
突然、盛り上がった土にムウはつんのめった。その背にカミュがぶつかって、2人は青葉の上に倒れこんだ。羽を休めていた黄色い蝶が驚いて舞い上がった。空へと高く。澄み切った、晴れ渡った青空へと。
「ぬ、抜けたのか…!」
ばらばらと足音を立てて、残りの10人がたどり着いた。
斜面だ。背丈の低い草に覆われた、なだらかな斜面がどこまでも続いている。遥か向こうの蝶の姿まで見分けられるほど視界は晴れているのだが、見渡す限り、青い斜面と青い空であった。
急に、ムウは背中のカミュを突き飛ばして飛び上がった。
「聞こえる…。」 ムウだけではなく、全員が丘の頂上を見上げた。
「聞こえるぞ、このムウの耳にも! フィオナの歌声が!」
ムウをはじめ、数人は再び駆け出した。だが、アフロディーテや童虎は顔を見合わせてゆっくりと登り始めた。
この丘は終わりが無いわけではないらしい。暫く走ると、頂上に巨大な砦が顔を出した。その姿が大きくなるにつれて、辺りは草原から優雅な花園へと変貌した。巨大な砦の門が見えるところまで来ると、ひたと止んだ歌に、聖闘士たちは足を止めた。
「何て大きい城だ…。」 カミュは、天に届きそうな純白の城を仰いだ。 「まるで神話の世界だ。」
この花園にたたずむと、まるで神そのもののような輝きを放つサガは、必死にフィオナを探し回るムウとは反対方向に歩き出した。下から童虎たちが登ってくるのが見える。
(アテナは無事だろうか…。ハーデスは倒せたのだろうか?) そして、冥界で闘っていたはずの弟のカノンを思う。
ふと、日当たりのいい木陰にサガは何かを見つけた。――女性だ。ゆったりと波打つ、ハチミツ色の髪をしたその女性は、サガを見るとそっと微笑んだ。その、真珠をちりばめたような輝きは天女に違いない。
「先程まで歌っていたのは貴女か。」
天女は、林檎色の頬に少女のような笑窪を作って他の聖闘士たちを指差し、こちらへ来るように手招きした。サガは木漏れ日に消えていくその後姿を見つめていたが、やがて、仲間を呼びに踵を返した。
明るい森だ。木々は小さな命をはぐくみ、花園に劣らないほどの鮮やかな花を地面に彩っている。その中でも最も日の当たる木の根のところに、先程の天女は腰掛けていた。
「ようこそ、オリュンポス神殿へ。」
「オリュンポス… オリュンポス神殿だと!? 神話の時代、神々が住んだと言われるオリュンポス山の神殿か!?」
12人はどよめいた。見上げると、白い城壁が枝の間からのぞいている。
「馬鹿な… オリュンポスは、神のみが立ち入ることが許される聖地のはず。そこに何故、われわれが導かれたのだ。われわれの魂をここまで引き上げたのは貴女か。」
「いいえ、あなた方をオリュンポスへ導いたのは、大神ゼウスですわ。神話の時代より、ゼウスはアテナに忠実にして殉死した聖闘士たちを、このオリュンポスへ迎えることにしているのです。あなた方は、聖闘士の宿命に従って己を犠牲にした。それで、ここへ導かれたわけです。…それまでの行いが、どのようなものであったにしても…。」
サガをはじめ、かつてアテナに拳を向けた聖闘士たちは思わず目を伏せた。
「大神ゼウスは大変慈悲深いお方…。最終的にアテナと地上に貢献した聖闘士は、皆平等に扱われます。でも、大抵の聖闘士は、さっきまであなた方がさ迷った野で安住の眠りにつくのですが…。あの地は宇宙の根源、カオスの核と言うべき場所。天国へ行くよりも、冥界で苦を強いられるよりも、最も死者にとって幸せな場所なのです。そこで眠りについた者には、永遠の生が与えられます。大宇宙に抱かれて、未来永劫何度でも命として生まれ、生きることが許されるのです。時々、あなた方のように、出ることを望む異端児がいますけどね。」
天女は、またいたずらっぽそうに笑った。
「アイオロス、あなたもそうして地上へ帰されたのですよ。あなたがあまりにも、地上のアテナの元へ戻りたがるから。
神殿へ導かれた聖闘士には選択肢が与えられます。それは、再び野に戻り、安住の眠りにつくか。それとも天国へ行くか。神殿の中で、神々と共に暮らすこともできます。門前の花園で永遠の時を楽しむこともね。変わったところでは、アイオロスのように魂として地上へ戻ったり、冥界へ落ちると言う選択もあるにはありますが…。誰も選ばないわ。」
「それよりも!」 アイオリアが進み出た。
「アテナはご無事なのか!? ハーデスはどうなったのだ? 俺たちは、それが気がかりであの野を抜け出したのだ!」
天女はふと笑みを打ち消し、腰元の花に目を落とした。
「…ハーデスは死にました。そして冥界も滅びました…。アテナの勝利です。」
突然の歓声に、黄金に輝く鳥が空へと飛び去っていった。肩を抱き合い、中には涙を流しながら、聖闘士たちは喜んだ。アテナの勝利を。自分たちの死が、地上を平和へ導いたことを。
天女はその様を切なそうに見上げていたが、やがてちらと白い歯を覗かせた。
「アテナも、あなた方も本当に地上のためによく尽くしてくれました。さあ… これで思い残すことも無いでしょう。選んでください。魂の行き先を。」
すると、それまで仲間と共に感慨にふけっていたムウが進み出た。
「そうだ…。フィオナがここに来ているはずだ。先程歌を歌っていた…。彼女も志半ばで倒れたとはいえ、地上のために戦った身。フィオナも、このオリュンポスに導かれたのでしょう? フィオナをご存じないか。赤い瞳をした娘なのだが。」
「さっき、歌を歌っていたのはこのわたくしです…。」
「何…?」 ムウは疑いの色を浮かべ、目を伏せる天女を見下ろした。 「あれはフィオナが歌っていた歌だが?」
「――…あれは、わたくしが大地に実りをもたらす時に歌う歌なのです。彼女は、わたくしの魂が覚えていたために、ときおり無意識のうちに歌うことがあったのです。先程歌っていたのは、フィオナではなくわたくしなのです…。」
はっと、シャカが瞳を開いた。天女の姿をなめるように見つめた後、それまでの無礼に気付いて膝をついた。
「貴女は… ペルセフォーネであられますね?」
ムウは驚いて天女を振り返った。ムウだけではない、ジュデッカに居合わせた童虎たちも驚きの色を浮かべた。事態を知らない他の聖闘士たちは顔を見合わせたが、どうやら神話を思い出したようだ。
ペルセフォーネは、かすかに顔を赤らめながら頷いた。
「ええ…。ハーデスはあの時、フィオナの肉体を諦め、わたくしの魂のみをさらおうとしました。再び違う肉体を与えて、エリュシオンに誕生させようと。しかしゼウスが介入し、わたくしを天界へと引き上げてくださったのです。お陰で、故郷であるこのオリュンポスで、また母と共に暮らすことができます…。」
「では、フィオナは!?」 ムウは血相を変えて詰め寄った。
「フィオナはどうしたのです! 貴女とフィオナは魂を共有していたはずだ。なのに、貴女だけここにいるとは…。フィオナはどうなったのです!」
陽光を受けて一層光り輝くペルセフォーネは、若草色の瞳でムウを見上げると、静かに瞼を閉じて立ち上がった。そして、柔らかく浮かび上がった花の海に身を沈めると、その中から何かを抱き起こした。
アイオロスを抜く11人は、見覚えのある姿に思わず声を上げた。サンクチュアリに仕えていた時のように、編んだ髪を胸に垂らした、フィオナなのである。
「フィオナ!」 ムウは花を掻き分け、ペルセフォーネに抱えられたフィオナの前に膝をついた。
「フィオナ…! よかった… あなたもこのオリュンポスへ導かれていたのですね。よかった…、これでようやく…」
(なんと!) その後ろで、サガは激しく動揺していた。彼が教皇になりすましていた時代、サンクチュアリに仕えることを許した魔女は、冥界の女王の化身だったのである。教皇を演じていたこと自体が大罪だったとはいえ、尚更アテナを危機に陥らせていたかもしれない事実に、身の凍る思いを覚えるのだった。
いかなる時も冷静沈着だったムウの嬉々する姿に、唖然とするデスマスクたちを促してミロは立ち去ろうとした。一時は思いを寄せた娘だが、その魂が迎えた幸福に、ミロの心の靄も晴れたらしい。
だが―――
突如、穏やかな森にムウの叫びが響き渡った。
振り返ると、ムウがペルセフォーネに掴みかかっている。激しくペルセフォーネを揺さぶりながら、すさまじい剣幕を浮かべて食いついている。ペルセフォーネは蒼白になりながら、頑なに唇を噛み締めるのだった。
「ムウ!」 シャカがその姿に飛び掛った。 「何をしているのだ! 仮にもこの方は神なのだぞ!」
だが、ムウは目に涙すら浮かべてペルセフォーネから手を離さない。ただ事ではない事態に聖闘士たちは顔を見合わせた。ペルセフォーネはシャカに少し落ち着きを取り戻したのか、かすかに声を震わせながらムウに目を向けた。
「…彼女は天界に留まれません。わたくしとフィオナがそもそも分離したのも、フィオナと魂が融合したままでは、この地に立ち入ることができないからなのです。だから、ゼウスはわたくしを神殿へ戻すために、彼女だけを… フィオナのみを冥界へ送ることにしたのです。」
冥界と言う言葉に聖闘士たちはどよめいた。シャカも、ペルセフォーネの端麗な横顔に目を見張った。
「――フィオナは魔女です。魔女とは悪魔と契約を結ぶ、闇の存在者。それを、聖なる神々の地に留め置くことは決して許されないのです。そして邪悪なる者の行き着く場所はただ一つ、冥界と神話の時代から決められているのです。」
ムウは言葉に詰まって、ただペルセフォーネを睨みつけた。ペルセフォーネの柔肌はムウの握力に赤く染まっている。
「邪… 邪悪だと…」 ようやくムウは、唇をおののかせながら食いついた。
「邪悪だと… フィオナが闇の存在者だとっ!! 馬鹿な! ペルセフォーネ! ――貴女もフィオナと共に生きてきた身ならわかっているはずでしょう…! フィオナの清らかさを。春のような温もりも、優しい波動も、決して貴女だけのものではなかった! フィオナ自身が、慈愛に満ちた娘なのだ! それを… それを邪悪とは!」
「ムウ…。」 ペルセフォーネも目を潤ませている。
「魔女の肉体は、ハーデスが身勝手な欲望のために創り与えたもの。ペルセフォーネ、フィオナは貴女と言う聖なる魂を持ちながら、その運命に翻弄され続けた不幸な娘なのでしょう!?聖者としての素質を持ちながら、結局は邪悪として人間に扱われてきた、残酷な人生だった!それを… それを、死しても尚、魔女と言う理由で苦を強いられなければならないのか!それが慈悲深いゼウスの扱いか!」
ペルセフォーネの瞳からこぼれ落ちた涙が、その腕の中で静かに寝息を立てるフィオナの顔を濡らした。言葉を失ったシャカの背後から、これも怒りに震えるミロが歩み寄った。
「ペルセフォーネよ、そもそも魔女を邪悪なる者と位置づける、ゼウスの見解自体が間違っているのではないか?魔女とは古来より、病魔や災害など、人々の生活に不幸をもたらす邪悪に立ち向かう、巫女や薬師のことだったはず。それが中世ヨーロッパにおいて、人の心に巣食う悪鬼と戦うための魔術、干ばつや洪水から村を守るための占い、薬の調合などの知識に精通していた女性たちを、悪魔と関係を持つ汚らわしい魔女として捲くし立てたのが、魔女を悪なる者として認識するようになった始まりだったのだ。ゼウスはそれを知らんわけでもあるまい。なのに何故、彼女を冥界に落とすなどというのか。」
「いや… それよりも」 童虎が口を挟んだ。 「貴女は、ハーデスと共に冥界も滅んだと言ったはずだが?」
12人の視線が、一斉にペルセフォーネに注がれた。ペルセフォーネは唇まで蒼白になりながら、ムウに掴まれた肩に目を落としている。だが、やがて胸の震えを止めるようにフィオナを引き寄せると、静かに口を開いた。
「ええ…。冥界はハーデスと共に消えてなくなりました。―― しかし、冥界… つまりタルタロスは、天界を含めたこの宇宙の構成要素なのです。宇宙の秩序が壊れることはありません。今は、塵の散布する亜空間となっていますが、幾星霜ののち、冥界は形を変えて甦るでしょう。そして、それまでその亜空間を漂うことになる亡者たちを治める為に、ハーデスも冥王として復活を遂げるでしょう…。そう言っても、遥か、気の遠くなる未来の話ですが…。」
聖闘士たちは、オリュンポスの碧空が陰ったのではないかと思った。それほど、ペルセフォーネの口から語られた事実は彼らの喜びを裏切るものだったからである。
「では… アテナとハーデスの戦いは、これで終わったのではないということか…。再びハーデスが甦る時、アテナも地上に降臨し、聖闘士たちも甦って新たな聖戦が繰り広げられると言うのか…。」
ペルセフォーネは頭を垂れるように頷いた。
「アテナの敵は、まだハーデス以外にも残っています…。近い将来、再びアテナは戦うことになるでしょう。…しかし、これだけはお約束しましょう。遠い未来、ハーデスが甦ったあかつきには、わたくしも彼の妻として甦りましょう。そして全力を持って、彼が地上を支配しようとするのを阻止しましょう。
…神話の時代には、彼の孤独さに彼を見限ることもできず、アテナと争うことになってしまいましたが、次こそはわたくしが彼の孤独を包み、地上を支配しなくとも、覇王として栄華を極めなくとも、幸せは身近にあること、愛と言うものが、何よりも代え難いものだということを彼にわからせるつもりです。そして彼と共に、冥界を絶望の地ではなく、死者にとって安住の地となるよう築いていくつもりです。」
飛び立っていった黄金の鳥が、長い尾をたなびかせながら舞い戻ってきた。木々は根も枝も思いのままに伸ばし、花々は蝶を誘惑するために、その魅力の限り咲き誇っている。一匹の栗鼠が、花の海に佇む人々の姿を不思議そうに見上げながら木の影へと消えていった。
「どうあっても… フィオナは亜空間を永久にさ迷うしかないのですか…。」
ペルセフォーネから手を離したムウは、眠り続けるフィオナの顔を涙のうちに見つめた。
「…ならば私は、オリュンポスへ導かれた聖闘士として最初の選択をしましょう。私も冥界へ行きます。そこが例え光の無い絶望の闇でも、フィオナと共にいれば魂も満たされると言うもの。誓いを果たす時が来たのだ。共にあろうと。決して離れはしないと…。――私はフィオナと、冥界行きを選びます…。」
「ムウ!」 岩のようなアルデバランが拳を握り締めて一喝した。
「馬鹿な! 冥界へ行くなど…! わたし達も共にゼウスに抗議しよう。だから、諦めるな…!」
同調の声が森をざわつかせた。だが、ムウは瞳を閉じるばかりで首を横に振った。先程までの動揺し、怒りに満ちた表情は消え、普段のどこかしら憂いを含んだ、穏やかなムウの顔に戻っている。その決意の固いことを悟った仲間たちは、それ以上何も言わずただ目を伏せるばかりであった。
「ムウ…」 静寂を待っていたかのように、その時ペルセフォーネが口を開いた。
「…どうか、そう簡単に冥界行きを選ばないでください…。一度オリュンポスへ迎えいれた聖闘士を冥界へ落とすと言うことは、ゼウスにとって神々の反感をまぬがれない、避けたい選択なのです。」
「…フィオナを魔女と言う理由だけで、冥界へ落とそうとするゼウスの意思など私には関係ない…。」
「ムウ…」
ペルセフォーネは、腕のフィオナをそっとムウに手渡した。柔らかい陽光に包まれて眠るフィオナは、胸が張り裂けそうなほど愛しい。
ペルセフォーネはムウへ膝をすえなおすと、その顔を覗き込んだ。
「正直… 魔女が悪かどうかと言う議論は、神々の中でも分かれています。しかし、この子の場合は… 残念ながら、ハーデスが意図して闇の存在として創ってしまったために、どうしても天界へ入れることはできないのです。でも、ゼウスはフィオナ自身が悪ではないこと、咎めるような罪も犯していないことはご存知なのです。ゼウス自身、フィオナの冥界行きは苦渋の決断なのです。
でも、ムウ…。言ったはずです。ゼウスは大変慈悲深いお方だと。ハーデスの強いた運命に翻弄され、なお、死後も光を与えられないフィオナをゼウスは不憫に思い、もう一度だけ、冥界へ落ちなくて済むためのチャンスを与えられました。この条件をこなせば、晴れてフィオナは魔女の肩書きを拭い去り、天界の住人となれる機会を。あなたと共に、天界で暮らすための試練を。」
ムウは目を開いた。聖闘士たちもペルセフォーネを見つめた。言いようの無い沈黙が辺りを包んだ。
ペルセフォーネはムウの腕のフィオナに目を向け、やがてそっと瞳を閉じた。何か、この娘にとって、最も残酷な試練を言い渡すかのように…。ムウは耐え切れずその姿に身を乗り出した。
「条件とは… その条件とは、何なのです、ペルセフォーネ…!」
フッ、と、ハチミツ色の髪を揺らして、ペルセフォーネは空を仰いだ。溢れそうになる涙をこらえるために。
「………生きること…。」
いたずらな風が、梢に波を起こした。それまで宙に遊んでいた蝶は、慌てて花びらにとまった。
「もう一度地上へ戻り、その生涯を生き抜くこと…。そして寿命を終え、天に召される日が来た時、何の罪も犯してなければ、神々に認められる生き方をしていたのならば…。彼女は、この地へ立ち入ることを許されます…。」
風に浮かんだフィオナの髪が、優しくムウの腕をなでた。聖闘士たちは互いに顔を見合わせた。意外な条件に。フィオナの過去を知らぬ者にとっては、あまりにも容易く聞こえる試練の内容に。
だが、フィオナと言う娘をわずかな時間ながら知り、愛したムウ、そして、16年間フィオナの意識下でその孤独な生き様を共有してきたペルセフォーネにとっては、フィオナに再び愛する者を失い、孤独に身を投じながら生きる道を与えることがいかに残酷であるか、例え魂を八つ裂きにして異空間に飛ばすとしても、そっちの方がどんなに彼女にとっては思いやりのある選択か、2人は痛いほど知っている。
こらえることのできなかった涙が、ついにペルセフォーネの頬を伝った。
だが、ムウの睫毛を濡らすものはなかった。
ムウは腕のフィオナを見下ろした。生の痛みを知らぬ赤子のように、フィオナは光に包まれて眠っている。暫くすると、幸せな夢を見ていたように目を覚まし、ムウに優しい笑みを浮かべるのではないかと思われるくらい、安らかなのだ。
どちらに転んでも、この娘には苦痛を強いることになる…。
だが、共に冥界に行けば、少なくともフィオナは孤独を味わうことはないだろう。
再び生を与えれば、その無垢な心は傷つき、想像に耐えぬ孤独が彼女を襲うかもしれない。
だけど―――……
「…ペルセフォーネ…。」
ムウは顔を上げた。その瞳は、澄み切ったこの青空のようにきらきらと輝いている。
ペルセフォーネは頬に筋を作りながらその顔を見つめた。
「お願いします。フィオナに、チャンスを。生きる道を、与えてください…。」
ペルセフォーネは耐え切れず両手で顔を覆った。嗚咽を漏らしながら、必死に応えようとしている。暫く悲しみに肩を震わせた後、静かに手を下ろして涙にぬれた顔を縦に振った。
「それが… あなたの出した答えですね…?」
ムウは、口の端に笑みを浮かべて頷いた。ペルセフォーネは厳しさをも漂わせて確認した。
「神々に認められる生き方というのは、並大抵の人間がこなせるものではありません。そこには一片の穢れも無く、まさしく神に近い生き方をしなければならないのですよ。そして、この事を今、彼女に伝えることはできません。生かせる道を選んだ以上、彼女とあなたは生者と死者。言葉を交わすことは許されません。」
ペルセフォーネは、子供に諭す母親のような目でムウを伺った。だが、ムウは依然として頷くばかりだ。
「…わたくしは… その娘が天界に認められる生き方をこなすとは、正直思えません。それは彼女を過小評価しているのではなく、実際そういう生き方をする人間はごくわずかだからです。奇跡に近いといっても過言ではありません。
それでも… 選びますか。生かせる道を。選んでしまうと、下手をすると―― いいえ、おそらく高い確率で、二度と彼女と会うことはできなくなるかもしれません。どうします、共に闇に落ちる道も残されています。それとも賭けてみますか、わずかな可能性に。彼女に。」
ムウはもう一度フィオナに目を落とした。そして瞳を閉じ、一句一句を噛み締めるように答えた。
「私はフィオナを信じています…。」
ペルセフォーネは頷いた。羽を休めていた蝶が、再び光溢れる空へと飛び立っていった。
そしてその蝶を追うように、数え切れないほどの花びらが、高く、高く舞い上がっていった…。
後には、小さな生き物の、小さな足音がささやきあう、静寂な森が戻った。
神々が暮らす理想の楽園、オリュンポス。
天へと聳え立つ砦の前に広がる花園に、今日もまた、あの人は腰掛けている。風に遊び、絶えることなく色どり豊かに生を楽しむ花々を眺めながら。時には気まぐれないたずらか、木陰で歌うペルセフォーネの調べに耳を傾けながら。
いつの日か、花霞に愛しい娘の姿が浮かぶ日を夢に見て――――
サイドエピソードへ:id:witchsanctuary:20120801
※この作品は、聖闘士星矢の「天界編」が製作されるより前に書いたものであるため、一部の設定が異なることをご了承ください。
教皇の間のフィオナ1
「え…? カストロさんがいなくなった…?」
ギリシャ、アテネ郊外にある聖域、サンクチュアリ。ここは、神話の時代よりアテナ神殿を守護している、十二宮の頂に聳え立つ教皇の間―――
その日も厨房から教皇の間へ食事を運んできたフィオナは、門番にカストロの蒸発を知らされて呆然と立ち尽くした。カストロとは教皇の側近を務めていた豪腕の男で、教皇への取次ぎは全て彼が行っていた。食事も、教皇の間へ続く巨大な門の前で、カストロがフィオナから受け取っていたのである。
その彼が、忽然と姿を消した―――
フィオナは食事の乗った盆を抱えたまま、困惑気味に、レリーフの施された教皇の間の扉を仰いだ。じめじめとした石造りの廊下には、今フィオナ以外には誰もいない。それもそのはず、教皇の間は側近や呼び出された聖闘士のみが立ち入ることが許される場所なのだ。だから普段、この場所には人気が無い。
フィオナはもう一度振り返って廊下の先の門を見た。門の外には、門番を含めサンクチュアリに仕える雑兵たちがいる。だが、カストロに代わって教皇に食事を届ける者がいないため、その日はフィオナが直接教皇に食事を運ぶよう命じられたのだった。
フィオナは扉に向き直って、白い腕をそっとその冷たい扉に乗せた。深い海底から聞こえるマグマの脈動のような、静かでいて、かつ重苦しい振動が扉越しに伝わってくる。フィオナは思わず手を離して、ごくりと唾を呑んだ。まるでこの館自体が生きていて、扉の前のフィオナを伺っているようだ。
フィオナは扉から一歩身を引くと、少し遠慮がちに扉の向こうの人へ呼びかけた。
「教皇様… お食事をお持ちいたしました。」
暫しの間、鉛のような静寂が辺りを包んだ。やがて、分厚い扉の奥から低い声が漏れてきた。
「…ウム… ご苦労、入りなさい。」
その言葉を待っていたかのように、フィオナの細い腕が触れた途端、扉は重い音をたててゆっくりと開いた。
深夜のような冷気がフィオナの頬を撫でた。広大な教皇の間には、物言わぬ巨大な石柱がその高い天井を支えており、床にはまっすぐに敷かれた緋の絨毯が暗闇に映えている。そして、間の突き当たりに、吊り下げられた分厚い幕を後ろにして、教皇が玉座に腰をかけていた。
「…教皇様」
フィオナは吸い付けられるように床に跪いた。その人は十数メートルも先にいるのに、その絶対的な存在の前では顔を仰ぐことも出来ない。微動だにでもすれば、不可思議な力によって地に叩きつけられる心地さえするのだ。
そう… まるで教皇とは、神のような存在であった。
「教皇様、お食事を…。カストロ様がご不在との事で、衛兵に申し渡されてこの場までお持ちいたしました。」
床に目を伏せたままフィオナはそう言いながら、胸が小刻みに震えるのを教皇に気付かれはしまいかと案じた。先の教皇は静かに息をつくと、絨毯に浮かび上がる白い蝶の姿をマスク越しに見た。
「その通りだ。食事を取り次ぐカストロはいない。これからは、直接お前がこの教皇の間へ持ってきなさい。…サ、盆を私のところまで持ってきてはくれぬか。」
フィオナはよろけないように細心の注意を払いながら立ち上がると、しずしずと玉座の方へ歩み寄った。やがて段差の前まで来ると、一旦跪いてから、おそるおそる教皇の膝の前まで近づいた。
刺繍のほどこされた教皇のローブの裾が、フィオナの赤い瞳に映った。それがつと揺れたかと思った瞬間、フィオナの掲げた盆に大きな教皇の手がかかった。それと同時に、深くマスクで顔を覆った教皇が囁いた。
「久し振りだな、フィオナ…。2年ぶりくらいか。元気でやっておるようだな。」
フィオナは無意識に少し顔を上げると、数歩下がって絨毯に手をついた。
「…はい…。――教皇様には、何とお礼を申し上げたら良いのか…。お陰様で、無事平穏に職務を務めさせていただいております。」
教皇は傍らに盆を置いて、マスクの下でそっと薄く笑みを浮かべた。
「そうか…。それは良かった。私の気遣いも、取り越し苦労にはならなかったようだな。この教皇の触れは、しかとサンクチュアリ中に行き届いているようだ。決して… ――魔女を迫害してはならんと。」
フィオナは閉じていた瞳を開いた。真紅の輝きを放つ瞳が、2年前と変わらぬ教皇の姿をそっと捉えた。
2年前、サンクチュアリ郊外の小さな村――
その日も、教皇と側近であるカストロは人々を見舞うために教皇の間より赴いていた。からりとした秋の空が広がる昼下がりのことで、村人たちは家々から飛び出しては教皇を拝んだ。
「苦しくても、必ず神が皆を見守ってくださっています。信仰を忘れずに、謙虚に日々を送るのですよ。」
教皇は純白のローブを風にたなびかせながら、石造りの家が立ち並ぶ狭い坂を歩んでいく。教皇を慕う子供たちが、歓声を上げながらその後に続いた。平和なひとときだ。教皇はふと足を止めると、小鳥が戯れながら飛んでいく様を見てそっと目を細めた。
だが次の瞬間、教皇が足を止めたすぐ横の家から、激しく争う声が響いてきた。女が金切り声で何か叫んでいる。物が落ちる音がしたかと思うと、とっくみあうような振動が外壁を揺るがした。
「くっ…!!」
その家の2階にある小さな寝室では、女が2人、果物ナイフを争って掴みかかっていた。背の高い年上の女が、ようやくもう一人の手をふりほどいてナイフを奪い取ると、返す手で相手の頬をぶって床に叩きつけた。
女は激しく肩で息をついてから、甲高い声を震わせて床に伏す女に罵声を浴びせた。
「馬鹿ッッ…!! 死のうなんて、馬鹿げた考えはいい加減捨てたらどうなのっ!!?」
力尽きたようによろりと床から身を起こしたのは、乱れた茶色い髪をした、14くらいの少女だった。年上の女のものなのか、身に余る紺の服からは、その血肉さえも透けて見えるのではないかと思うほどの白く透き通った細い足がのぞいている。髪に覆われて、伏せたその顔は窺い知ることは出来ないが、深い悲しみと絶望に支配された、今にも散ってしまいそうな花に似た姿である。
すっかり興奮して仁王立ちする黒髪の女は、その時、部屋の入り口に立った人物が誰であるかに気付かず、突然の来訪者に一瞥をくれてしまった。が、次の瞬間首元まで一気に青ざめ、危うく落としたナイフに踵を突き刺すところだった。
「どうしましたか。」
教皇は身をかがめて入り口をくぐると、争いで砕け散った花瓶に目を留めて眉をひそめた。女はひたすら狼狽して意味不明の言葉を発し、床に跪く少女は教皇の方を見ようともしない。
すると、共に部屋に入ろうとしたカストロの背後から、背のまるまった老婆がちょこちょこと割り込んできた。老婆は教皇に手を合わせて拝んだ後、割れた花瓶やナイフを片付けて女をなだめ、目を伏せる少女の横にちょこねんと座り込んだ。
老婆の話はこうであった。
この少女は、海辺に打ち上げられていたのを村人に救い出され、うちにやってきたが、すっかり心を閉ざしてしまっていて、ちょっと目を離すと死のうとするため夜も眠れないのだという。
「何があったのか知りませんけど、こんな若い娘が死のう死のうなんて不憫でねぇ…。」
教皇は、しわで覆われた口でもぞもぞ話す老婆の隣に目を向けた。少女は相変わらず頭を垂れたままで、その姿からは全く生気が感じられない。依然として話し続ける老婆を教皇は手で制すると、そっと膝をついて少女の頭に手をやった。
瞬間、電流が走ったように、少女は吃驚して教皇の顔を仰いだ。教皇もまた、少女の顔に驚きを覚えた。カストロも、そのただならぬ雰囲気に目を見張った。
真っ白な少女の小顔に大きく開いた真紅の瞳が、一気に教皇の中に飛び込んできたからである。実際、そう疑うほど、強烈に少女の瞳は教皇の心を射た。いや、少し離れて立つカストロにでさえも、その眼光は響いたのである。
教皇は思わず少女の頭から手を離した―― この娘は、人間ではない―― そう、直感的に悟ったからだ。
だが、その鈍い輝きの奥に深い絶望を見て、教皇は再び手を置いた。少女は相変わらず爛々とした光を赤い瞳から放ちながら、頭に触れた手の不思議な感覚に精神を研ぎ澄ましている。
教皇は暫く、魔力の宿った瞳の奥の、底知れぬ悲しみを吟味するように少女の面を見つめると、マスクの下で瞳を閉じて優しく語りかけた。
「…何が、あなたをそのような深い悲しみに引きずり込んでいるのかはわかりませんが、娘よ、はたして死があなたを救うのだろうか? 死は苦しみではない。安息に満ちた眠りでしょう。ですが、聞きなさい。それでも、光は生きている間にしかありえないのです。温もりも、喜びも…。生は苦という言葉があるように、その逆も然りなのです。人は、悲しみや苦しみにこそ心を捕らえられ易い。光よりも、闇に身を投じやすいもの…。だが、忘れてはいけない。外をご覧なさい。こんなにも世界は光に溢れている。私の手の温もりを感じなさい。あなたを決死の思いで止めようとした、彼女の叫びに耳を傾けるのです。
さあ… あなたは一人ではない。闇は光に隠れている。立ち上がるのです。自ら光へ歩んでいくのです。闇は、決して去るものを追うことはしないのだから…。」
そう言ってふと開いた教皇の瞳に、少女の赤い瞳が浮かび上がった。紅色の瞳のずっと奥… 何万光年という次元を突き抜けて、少女自身でさえも知りえない魂の遥か彼方に―― 教皇は絶大的な闇を見た。と、同時に、不可侵的な崇高な輝きを見た。
(この… 娘は、一体何者なのだ…?) 少女の中に巣食う闇と光は、神の化身といわれる教皇でさえも恐れを抱くほど、偉大なる力に支配されている。だが、ふと目を戻せば、そこにいるのは傷ついた、年端も行かない乙女の姿があるだけだ。
教皇はもう一度少女の頭にあてた手に力を込めて、その瞳を見つめ返した。やはり、その吸い寄せられるような眼光は人間のものではない。
教皇は息をついて立ち上がると、カストロを促して部屋を立ち去る間際、再度少女を振り返った。
「もし、あなたが光の方へ導いてくれる存在を必要とするならば、一度サンクチュアリの私の元へ来なさい。許可はカストロを通じて、いつでもあなたが入れるように出しておこう。良いですね、再び深い闇があなたを呑みこもうとした時は――」
数日後。サンクチュアリに出入りする者を監査する検問所の衛兵は、突然現れた少女の姿に目を見張った。年増の女に付き添われてそろそろと門に近づいてきたその少女は、衛兵たちがこれまで経験したことのないような妖艶さを漂わせている。見た目は美しい、清楚な娘なのだが、その、見る者全てを射るような赤い瞳から放たれるものなのか、少女が近づけば近づくほど辺り一面に甘い香りがたちこめ、衛兵たちを陶酔させた。
薄い水色の服におさげを結った少女は門前まで来ると、付き添ってきた女を振り返って深々と頭を下げた。黒髪を乱暴に束ねたその女は、少女の姿を涙のうちに見つめていたが、ニッっと悲しげな笑みを浮かべると少女の肩を軽く叩いた。
「頑張るんだよ…。辛くなっても、教皇様はお前の味方なんだ。生きれば、きっとそのうち… ネ。」
女に見送られて、少女は門の衛兵の側まで来た。穴の開くほど自分を見つめる衛兵たちの視線を全身に浴びながら、少女はこらえるように手を握り締めて、消え入るような声で話し出した。
「………あの……。……私… 数日前に、教皇様にここへ… サンクチュアリへ来るようにと、その………」
長い沈黙に、少女はおそるおそる顔を上げた。門を守る衛兵たちのみならず、門を出ようとする者、少女と同様サンクチュアリに入ろうとする者、少女を取り囲む者全てが、魂を抜かれたように少女を見つめて佇んでいる。
少女は唇まで青ざめて、その場から駆け出したくなった。だが、女の見守る視線を背に感じて、スカートの裾を固く握り締めると大きく息を吸った。
「あの―― 私…!」
「おお、来たか。」
不意に後ろから太い声がして、呆然としていた衛兵や人々は急に我に返った。見ると、遠くから少女を見つけて走ってきたのか、カストロが息をきらして立っている。衛兵は慌てて職務に戻ろうとしたが、再び少女を見てその魔性の力にとりつかれてしまった。カストロもまた、少女の瞳に魂を吸い取られるような感覚に襲われたが、何とか自制心を保ってその姿から目をそらした。
「…こいつらには言い渡しておいたのだが、教皇様の危惧通りこのザマだ。サ、来なさい。連れて行ってあげよう。」
夢見心地の衛兵をかきわけて、カストロは門を開けると少女を中に招いた。少女はもう一度女を振り返った。足を止めてこちらに魅入る人々の中で、女は笑みを浮かべて手を振っている。少女はまっすぐ女に向き直ると、瞳を閉じてそっとお辞儀をした。
やがて、カストロと少女が遠ざかると、人々は正気を取り戻して、只者でない少女の存在を噂し合った。
歩く岩のようなカストロの後に続きながら、少女は必死に視線を落として人々の目に耐えた。門の辺りは雑兵であふれかえっており、十数メートル先の雑兵までもが、驚いて少女を振り返るのだ。
少女が近づいては通り過ぎる度、その場の時間は停滞した。そしてまた、枯れ草が次第に火に覆われていくように、少女の噂もサンクチュアリ中に響いていった。
いくつかの関所を抜けて、やっと人気の無い岩場にたどり着いた時、カストロは岩山の頂上を指差して言った。仰ぐと、遥か頂に石造りの神殿が浮かび上がっている。そしてそこまでには、足場の悪い岩道が延々と続いているのだ。
カストロは、遅れて歩いてくる少女を時折振り返りながら、指を立てて説明した。
「教皇の間は、側近である私や招集のかかった聖闘士しか入れぬ神聖な場所だ。神殿には、教皇様の身の回りの世話をする雑兵や使用人が仕えている。私を含め、彼らはこの道を通って外部との行き来をするのだが、大抵は一度教皇の間に仕えれば、ほとんど外には出ない。出るには、幾重もの厳重な審査が待っているからな。
だから、教皇の間は、このサンクチュアリの要にして最も閉ざされた空間なのだよ。君は、今回だけ特別だ。仕える雑兵や使用人ですら、決して教皇様に謁見することは許されないのだからな。――さあ… もうすぐだ。きつかったらちょっと休むといい。」
少女は紅潮した顔をかすかに横に振って、唇から熱い息を漏らしながら必死に足を進めた。先で待つカストロに一瞬目を向けては視線を落とし、膝を押さえながら坂を上っていく。
やがて道が平らになり、教皇の間の巨大な石柱がその姿を現したところで、初めて少女が口を開いた。もちろん、カストロがその巨大な肉体に似合わぬ小さな耳を、そばだてなければならないほど小さな声であったが。
「……あの… 先程の話ですけど……、セイントって何でしょう…?」
カストロは、苦しげに息をつく少女を見下ろした。
「ああ… そうか。君はサンクチュアリの事をよく知らないのだな。聖闘士というのは、女神アテナに仕えて地上を守るために戦う、聖なる戦士のことだ。ここサンクチュアリは聖闘士の発祥の地で、教皇様はアテナに唯一拝謁できるお方。そして、アテナに代わって聖闘士を統率するお方なのだよ。聖闘士は普段、世界中の思い思いの場所に散らばっているが、教皇様のお呼びがかかればすぐにでもこのサンクチュアリに飛んでこなくてはならないのだ。」
「アテナ… ギリシャ神話の、アテナですか…。」
カストロは人差し指を横に振った。
「アテナや神話の中の神々が、架空の存在だと思ってはいないか? それは違う。――見てごらん。」
「…あれは、神話の時代からずっと受け継がれてきた、聖なるアテナ神殿だ。何を隠そう、今この時にも、アテナはあの場所におられるのだよ。嘘じゃあない。アテナは神話の時代から、地上を支配しようともくろむ邪悪と戦われるために、幾度も人の姿を借りて降臨なさっているのだ。今回も、11年前に降臨なされてから、ずっとあの神殿に――。聖闘士ではないわれわれは感じ取ることが出来ないが、このサンクチュアリはアテナの聖なる気に満ちているのだ。」
カストロはもう一度少女の顔を見た。少女は眉をしかめている。
「まあ… 今までサンクチュアリと無縁に生きてきた君にとっては、信じがたい話だろうが…。真実は真実だ。」
「いいえ…。」
少女は、蒼白な顔をアテナ神殿へ向けた。
「…信じます…。人間のほかに、どのような存在が地上にあろうとも…。…アテナの聖なる気…。ど、どうりで…。」
2人は教皇の間へ続く巨大な門の前に来た。槍を持った門番たちも下の雑兵同様、少女に魅入って、上の空のまま2人を中へ通した。カストロは薄暗い廊下の先にある扉の前に立つと、石壁が揺れるような太い声で叫んだ。
「教皇様、先日の娘が参りました。」
扉の先へは少女だけが通された。だが、先程の道のりで体調を崩したのか、少女は倒れそうになりながら足を進めていく。間の中央辺りまで来ると、がっくりと膝をついた。もはや、完全に血の気を失った少女の顔には、赤い瞳だけが不気味な光を放ち、床についた手は、その身を支えるのに困難なほど小刻みに震えている。
「具合でも悪いのか?」
玉座に腰をかけていた教皇は、少女の尋常でない苦しみように思わず身を乗り出した。少女の薄い唇からは不規則な呼吸が漏れ、答えることもままならない。
見かねて教皇が立ち上がった時、やっとのことで、少女の口から出た言葉は意外なものであった。
「ま… 魔女」
教皇は、マスク越しでよく聞き取れなかったのだろうかと疑った。だが、少女は必死に胸を抑えながら、わなわなと続けた。
「わ… 私は教皇様…… 私は、魔女なのです…。魔女…なのです。」
少女は何度も魔女という言葉を繰り返した。最も、後のほうでは声が出なくなって、唇だけが動いている状態だったが。しかし、教皇は驚きの中に深い合点を見出して、苦しみに喘ぐ少女を見つめた。魔女…。そうだろう、人間ではないことはわかっていた。しかし… 魔女とは?
魔女が中世の魔女狩りによって、その大半が滅んだ事は教皇も知っていた。魔女はやがて年月の中にその血を絶やしていき、決して甦ることも無いだろうと思われていた。少なくとも、このギリシャでは――― あり得ない。
何故ならば、魔女とは闇の存在であるからだ。そう、もう二度と魔女が甦らないだろうと教皇でさえも信じていた理由は、アテナの封印だった。繰り返し繰り返し、人類の歴史の中で、アテナは邪悪を封印してきた。そして魔女も、大半がその力を失った後では、世界に満ちる聖なるアテナの封印の影響で、その力は封じ込められたはずなのだ。
そうでなくとも、二百余十年の年月を経て、アテナが降臨したこのギリシャで、魔女が生まれることはまず無いといっていい。確かに、目の前の少女はアテナより早くこの地に生を受けたのだろうが、しかし、数百年に一度のアテナ降臨の時期に合わせて、魔女が甦るとはやはり考え難い――
教皇の思考は、少女が床に身を沈めたことで掻き消された。
「しっかりしなさい。――そんなに気分が悪いのなら、無理して今日来る事もなかったろうに。今、カストロを――」
側に膝をついた教皇のローブの裾を、白い腕が掴んだ。少女は死相を浮かべて訴えた。
「ア… アテナ…」
「…何…?」
「先…程…、この場にはアテナの… 聖なる気が満ちていると聞きました。聖なる…気が……。わ… 私…は、魔女だから… 聖なる…ものには、拒絶反応が出るのです…! 教会や… 聖地と言われる場所では… 私は…」
うっ、と、少女は再び倒れこんだ。その体を教皇は支えて、あの日、少女の瞳の奥底に見た深い闇を思い出した。
「ならば尚更のことだろう。カストロに言って、すぐにでもこのサンクチュアリから――」
「嫌です!」
息も絶え絶えになりながら、少女は強い力で教皇にすがりついた。
「お見捨てにならないでください! 私には… 私には、行く所などありません!教皇様も気付いておいででしょう。私の… 私の体は、魔力に支配されているのです…!ここに来るまでだって…。と、とても人間の中では生きていけない身なのです!私は… 魔女だから…。魔女は… 魔女は決して、決して人間の中では……」
少女はようやく無礼に気がついたのか、教皇の手から離れて床に手をついた。
「どうか… どうかサンクチュアリに置いてください…。お願いします、どうか、教皇様がおられるこのサンクチュアリに置いて下さい…。私は…… 私は、生きることも… 死ぬことも許されぬ身なのですから…。」
少女はやがてフィオナと名乗って、これまでのいきさつを隠すことなく教皇に打ち明けた。その内容は聞くにも残酷なものだが、フィオナは言葉に詰まることもせず、むしろ、積もり積もったものを全て吐き出そうとするかのような勢いでたんたんと話した。やがて、話が村人に救出されたところにまで及ぶと、フィオナは全身の力が抜けたように教皇の腕へ倒れこんだ。
「そうか……。そうであったか…。――そのようなことが、今のギリシャでも…。いや、しかしよくぞここまでたどり着いたものだな、フィオナ。安心なさい。もう、ここは… ここには、あなたを苛むものはもう、ない。私が許さん。誓おう。」
教皇は、羽を痛めた蝶を慈しむようにそっとフィオナの体を起こすと、村でしたように栗色の頭に手を置いた。半ば気を失いかけていたフィオナは、教皇の手から放たれる不思議な温もりに、全身の痛みが和らいでいくのを感じると、瞳を開いて、マスクに覆われた教皇の顔を仰いだ。かすかに覗いたその口元が、フィオナの瞳を受けて優しく微笑んだ。
「さあ、これで少なくとも、アテナの小宇宙に苛まれることはないでしょう。後はカストロに頼んで、身の振り方を考えてもらうといい。あなたの身の安全は私が保証する。あなたはサンクチュアリにおいて、もはや魔女ではない…。それに、おそらく暮らしていくうちに、魔女の血もアテナのお力によって浄化されるでしょう。アテナは、救いを求める者を皆平等に愛されるのだから…。」
幾分体調も回復して、カストロに付き添われて出て行くフィオナの後姿を、教皇は玉座に腰掛けて見送った。今聞かされた、あの少女が強いられ続けてきた過酷な運命を思う。あの細い体に蓄積されてきた、修復不可能と思われるほど深く、大きい心の傷を思う。
よくもここまで耐えてきた―― いや、フィオナは耐え切れるほど強くは無かった…。実際、この教皇ですら耐え得るかわからないほどの苦境を―― フィオナは抗うことも出来ず、ひたすら生きるしかなかった。死ぬことも許されない… 生かされてきたのだ。
「魔女…か。」
教皇は、再び魔女の復活の謎について頭をめぐらせた。そして、フィオナの瞳に見た、大いなる闇と光を脳裏に描いてみる。
(あれは果たして、魔女のものだろうか?) そもそも、魔女とは悪魔と契約を結ぶことにより、闇の力を得ていた下劣な者たちのことだ。魔女と契約を結ぶ悪魔の程度も多寡が知れていて、いくら悪魔に等しい力を得ると言っても、低級魔族のものとそう変わりは無いはずなのだ。
だが、あの闇は… フィオナの瞳に見た闇は、地上に現れる下等な悪魔のものではない―― いや、悪魔の次元を超えた、逆説的な言い方をすれば、崇高な輝きに満ちた闇、そう… まるで、神そのもののような――
共に瞳の中に見た光と同様、まるで、神のように不可侵的な存在感を放っていたのだ。
相反しながら共生する闇と光―――
『ククク… まるで、私たちのようではないか…?』
突如頭上でした声に、教皇は飛び上がった。間には誰もいない。教皇はどこを見るでもなく天上を仰ぐと、強く歯軋りして叫んだ。
「私たちと同じだと!?」
低い声は、サンクチュアリ中に響くようでありながら、教皇の脳裏だけに静かに語りかけた。
『そうだ…。私たちほど、強烈な闇と光を持ち合わせている者は他にはおるまい。お前が光なら、私は闇だ…。フフ、だが、その光も私という闇によって支配されつつあるがな…。』
「黙れ!! 誰がお前などに支配されているか! お前はことごとく私を邪魔してきただけだ…! お前のせいで私は…… わかっているのか!!」
『クク、そう怒鳴るな。側近が入ってくるぞ。…しかし、何故あの娘をサンクチュアリに入れた?あの深い闇と光は、只者ではないぞ。わかっているのか? お前の善意が、この先災いをもたらすことになるかもしれんのだぞ!』
「黙れ!」
教皇は勢い良く踵を返すと、背後の幕に歩み寄った。
「私は… 人々を愛しているのだ! 苦しんでいる者は、何者であれ救いの手を差し伸べるのだ!私は… 善だ! 闇夜を照らす光なのだからな!」
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