ハーデス編5
前へ:id:witchsanctuary:20120720
ムウは駆け寄った。他の6人もフィオナの遺体を取り囲んだ。
美しい――。結い上げていた栗色の髪がはだけて、白い肩に柔らかくかかっている。固く瞼を閉じたその死に顔は、どこか、妖しい動悸を覚えるほど端麗なのだ。ムウが、フィオナの名を叫びながら揺さぶる度に、花びらの香気が乙女の眠りを包んでいった。
「ハ… ハーデス…」 童虎の声も怒りに震えている。
「信じられぬ…。神話の中では、妻の言うことだけには逆らうことが無かったというハーデスが、己の野望のために妻の命を絶つとは…! それほどまでに、地上を欲するのか…! 愛するものを裏切ってまで、地上をっ…!!」
ミロは一番後ろで、ムウに抱えられたフィオナの姿を呆然と見つめた。はじめてサンクチュアリでフィオナを目にしてから、ムウがフィオナを引き取ったという噂を耳にしても、現に2人の仲を目の当たりにしても、今この瞬間まで胸に秘め続けてきた淡い思いは、最も残酷な形で踏みにじられたのである。
「…フィオナッ…! 目を… 目を開けてください…、フィオ――」
ぽとりと、音を立ててムウの瞳から涙がこぼれた。声なき声で、ムウは咽び泣いた。
(ペルセフォーネ…) シャカも、共鳴が止んだ聖衣に手を置いて天を仰いだ。見る間にジュデッカは元の闇に覆われていく。その闇に、シャカの瞳も曇るのではないかと思われた。
「フィオナ…。」
ムウは強く、しかし、優しく、まだ温かみを失わない娘の体を抱き寄せた。出会った時から、絶え間なくムウの心を惹きつけたあの甘い香りが、最後の香気を放つようにムウの顔を包んだ。ふと、フィオナの薄い唇から、かすかに息が漏れたような気がした。だが、ムウの胸を希望がよぎることはなかった。自分の呼吸が、乙女の唇に反射したに過ぎないことを知っているからだ。
そのままムウは瞳を閉じて、額と額を突き合わせた。雫が葉から葉へ伝い落ちるように、涙がフィオナの睫毛をぬらした。
「…星矢、瞬…。」
不意に立ち上がったムウの姿に、星矢はその顔から思わず目をそむけた。だが、ムウはもはや泣いてはいなかった。ムウの流した涙は、フィオナの白い顔に筋を作っている。
ムウは以前の、どこかしら憂いを含んだ穏やかな表情をして、静かに2人に歩み寄った。そして一端瞳を閉じると、花束を贈呈するように腕の花嫁を差し出した。
「フィオナを地上の、日の当たる綺麗な場所に眠らせてあげてください。お願いします…」
星矢は手を拒んだ。瞬と顔を見合わせてもう一度ムウを見上げたが、他の黄金聖闘士たち全員が、自分たちを見つめていることに気がついた。星矢は頷いてフィオナを受け取った。必ず約束は守ると答えたかったが、何故か、胸が詰まって声にならなかった。
途端、頭上に金色の閃光がきらめいた。
射手座のアイオロス、双子座のサガ、牡牛座のアルデバラン、水瓶座のカミュ、蟹座のデスマスク、魚座のアフロディーテ、山羊座のシュラ… 7人の黄金聖闘士の魂が、聖域より加勢に来たのである。幾星霜の年月を経て、12人の黄金聖闘士がジュデッカに集結した。
「老師…」
星矢と瞬は、12人の勇姿を見渡した。童虎は微笑を浮かべると、静かに頷いた。
「貴様ら!」
ジュデッカ神殿の門を出た2人に、黒い影が飛びかかった。
「おっ お前、ミーノス!?」
ミーノスは呼吸を荒げながら疾走してくる。
「あなたは冥界の果てまで飛ばされたはずじゃ…。」
「なめるな! 冥界など庭も当然。すぐ駆けつけるわ! …むっ!?」
勢いで星矢たちをふきとばそうとしていたミーノスは、星矢の腕の白百合を見て足を止めた。
「じょっ… 女王陛下!? 死んでいるのか…? 貴様ら、ハーデス様のお后に何をしたのだ!」
「そのハーデスが、この人の命を奪ったんだぞ! この人は、俺たちをエリュシオンへ導こうとして…。」
「何、ハーデス様が…? …いや、その娘が死んだ今、何の悪あがきをするつもりだ。嘆きの壁をどうするつもりだ!」
ジュデッカへ立ち入ろうとしたミーノスを2人は抑えようとしたが、一撃の下に伏されてしまった。だが、ミーノスが門を空けた瞬間、爆音と共にジュデッカ神殿は跡形もなく崩れ落ちた。
黄金聖闘士たちが少年たちにアテナを託し、自らの小宇宙を太陽と化して、聖闘士の星の下に散っていったのである。
後には、巨大な穴を開けた嘆きの壁と、肉体を失ってもなお輝きを失わない、12体の黄金聖衣だけが残った。
「逝ったのか…。」 駆けつけた紫龍と氷河も感涙に浸った。
「ああ… 逝った…。」
「僕たちに希望を託して…。」
「…そうと星矢、その人は…?」
「ああ、この人は冥界の女王、ペルセフォーネさ…。でも、俺たちをエリュシオンへ行かせようとして、ハーデスに殺されてしまったんだ。でも、そうだ瞬、この人をどうしよう? まさか、背負って行く訳にもいかないし。」
「私が預かっておこう。」
不意に背後でした声に4人は飛び上がった。振り返ると、瓦礫の間にパンドラが立っている。
パンドラは穴の開いた嘆きの壁に目をやることなく、まっすぐ4人の方へ近づいてくる。星矢は身構えはしないものの、腕のフィオナをかばった。瞬も、かすかに警戒の色を浮かべてパンドラを見つめた。
「あなたが預かるだって…? …悪いけど、この人のことはムウに頼まれたんだ。敵の手に渡すにはいかないよ。」
「この先、エリュシオンへは一本道だ。…帰るとき、どうせまたここを通ることになる…。」
「帰るときだと…?」 4人は顔を見合わせた。そして、漆黒の髪を持つパンドラをもう一度見た。
「その方は仮にも冥界の女王。悪いようにはせん。さあ、急ぐのだろう。こちらへ渡せ。」
氷河が何か言いた気に星矢を振り返った。だが、星矢は一歩進み出てパンドラへとフィオナを渡した。
「…頼んだぞ…。お前を信用するかどうかは今は考えている暇はない。俺たちは、一刻も早くエリュシオンへ向かう。・・・アテナの元へ!」
パンドラは4人が穴へ消えていくのを見送ると、平らな床の上へ遺体を寝かせた。
(お后様…) ハーデスに翻弄された自分の過去と、目の前の人とを重ねてみる。 (貴女様は、運命に立ち向かわれたのですね…。何が正しいか、知っておいでだったのですね…。私は… このパンドラは…。)
パンドラは立ち上がった。瓦礫の下からシャカの数珠を拾い上げると、そのままコキュートスの方へ消えていった・・・。
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