十二宮編1

 聖域、サンクチュアリ

 この日サンクチュアリは物々しい雰囲気に包まれていた。おこがましくもアテナの名を語る日本の少女と、サンクチュアリを裏切り、教皇に反旗を翻した青銅聖闘士たちがサンクチュアリに攻めてくる――

 教皇は十二宮を司る黄金聖闘士たちを招集した。双子座、天秤座、射手座以外の黄金聖闘士たちが集結し、黄金聖闘士たちは青銅聖闘士たちの奇襲に備えて、それぞれの宮に待機していた。



 第一の宮、白羊宮。巨大な石の柱が立ち並ぶ宮の入り口の階段に、赤毛の少年がちょこんと腰掛けている。大きなつり目で、眉は剃り、眉間のところに二つ点を描いた10歳ぐらいの少年だ。頬杖をつきながら、ぎょろぎょろといたずらっぽそうな瞳で辺りを見渡している。

 不意に、後ろでマントが風にはためく音がして、少年は振り返った。暗い宮の奥からコツコツと足音をたてて、一人の背の高い青年が歩いてくる。豊かな黒い髪を背中で束ね、少年と同じ眉をした若者だ。大きくするどい目つきをしてはいるが、どこか憂いを含んだその瞳は神秘的な雰囲気を漂わせている。青年が宮の入口に近づけば近づくほど、太陽の光が反射してチカチカと少年の目を射た。

 黄金の鎧を身に纏っている。首周りに大きな羊の角をかたどった、牡羊座の黄金聖衣だ。白いマントを翻しながら歩く姿は、若干20歳前後の若者とは思えない堂々とした威厳を放っている。青年は少年の後ろに立つと、静かに眼下の景色に目を落とし、ゆっくりとした口調でつぶやいた。

 「もうすぐ星矢たちがここサンクチュアリに現れる。貴鬼、お前もこの白羊宮で彼らを迎えるのです。おそらく彼らの聖衣は痛んでいる・・・。修復しなければなるまい。」

 貴鬼と呼ばれた少年は、コックリと頷いた。その瞳にはどこかしら、緊張がみなぎっている。あと数時間のうちに闘いが始まるのだ。貴鬼は座りなおし、再びサンクチュアリを見下ろした。いつ星矢たちは来るのだろう?果たして無事に教皇を倒す事ができるのだろうか?

 「ねえ、ムウ様・・・。」

 ついに、貴鬼は我慢できずに師の顔を見上げた。とても黙って座っていられないという表情だ。

 「星矢たちは本当に教皇を倒せるの? だって、星矢たちは青銅聖闘士なのに、8人の黄金聖闘士と戦わなくちゃいけないんでしょう?無事に教皇の間までたどりつけるの?」

 ムウはそっと貴鬼の顔から目をそらすと、静かに貴鬼の隣に座り込んだ。

 「それは、彼らの小宇宙しだい・・・。今のままでは、星矢たちはたちどころに倒されてしまう。第7感、セブンセンシズに目覚めない限りは・・・。」

 師の答えがあまりにも不安を煽るようなものだったので、貴鬼はムウの顔を覗き込んで半ば願うように言った。

 「星矢たちはセブンセンジズにきっと目覚めるしょう、ムウ様? 星矢たちは白銀聖闘士たちを倒したもの。だから、きっと今回も大丈夫だよね?」

 先程の問いかけとは全く正反対のことを言っている事にも気付かずに、貴鬼は必死でムウの横顔を見つめた。だがムウは目をとじたまま一言も発する事は無かった。



 「!?」

 突然ムウは立ち上がった。隣でそわそわと足を揺すっていた貴鬼も、慌ててムウの視線の先を探った。ムウは、白羊宮の屋根と空の境目を睨んでいる。何か、得体の知れないものが近づいてきているといった感じだ。

 貴鬼は、石段を数段降りて空を仰ぎ見た。その途端、真っ赤な花が突然目の前で咲き開いたように、貴鬼の目はいっぱいになった。

 少女だ。それも箒に乗って空を飛んでいる。白羊宮の上空を越えると、ゆっくりと弧を描きながらムウたちの方へ下降し始めた。

 「魔女」

 驚愕してムウがつぶやいた。

 まるで少女しか見えるものが無いかのように、視界の全てが支配されている。少女は蝶のように、ふわりと石段の下へ着地した。

 箒に配膳用のカートがくくりつけてある。少女は箒に結び付けられた紐をほどくと、かがみ込んでカートの中から食事の乗った盆を取り出した。そして盆に目を落としたままゆっくりと石段を登ってくる・・・。

 貴鬼は天女が舞い降りてきたのではないかと疑った。美しいとか、綺麗だとか言う言葉では到底表現できない。思考が止まり、体が宙に浮いているような感覚の中で、少女だけが世界の全てだった。視覚だけではない、精神そのものを魅了する美しさが少女にはある。

 淡い黄色のワンピースからのぞく肌は雪よりも白く澄んでいて、豊かな栗色の髪を左肩に寄せ、ふわりと編んで胸に垂らしている。小さい顔に大きく開いた瞳は、毒々しいとすら言っても良い、深い紅色をしている。先程、貴鬼の目に真紅の花のように映ったのは、この瞳のせいに違いない。

 花の強い香りのような、南国の熱い情熱のような、その赤い瞳から爛々と放たれる鈍い光に貴鬼は酔った。

 「お食事を」

 いつの間にか貴鬼の隣を通り過ぎて、少女はムウの前に盆を掲げて跪いた。

 「教皇の間よりお持ち致しました。宮を動けぬ皆様のためにと、教皇様のお心遣いにございます。」

 ムウはしばらく身じろぎせずに少女の面を見下ろしていたが、やがて気付いたように盆を受け取った。

 「どうぞごゆっくり」

 少女は膝を曲げて礼をすると、口をあんぐり開けたまま魅入っている貴鬼にニコと笑いかけた。一瞬にして周りの酸素がなくなったかのような息苦しさの中で、いつまでもその笑顔が貴鬼の目に焼き付いている・・・。その数段上で、ムウもまた盆を手に持ったまま少女の後ろ姿を見送っていた。

 少女はカートのところへ戻ると蓋を閉め、それから箒を抱えて近くの岩の影に座り込んだ。

 花の香りがなくなると急に貴鬼は我に帰り、ムウを仰ぎ見ては少女の方へ目を向け、そしてまたムウの顔を見上げた。貴鬼に視線を向けられると、ムウは少女から目をそらして石段に腰掛けた。貴鬼はその顔を訴えるように見つめていたが、ムウは食事にとりかかったため、踵を返して石段の一番下まで駆け下りた。

 「おねえちゃあん。」

 声が裏返りそうになるのをおさえながら、貴鬼は少女の白い顔が岩から覗くのを待った。

 「どうしてそんな所に座ってるのー?」

 少女は、はじめ顔だけ岩から覗かせたが、やがて上半身を乗り出して小さい声でささやいた。

 「・・・あのお方が食事を終えられたら、盆を回収しなくてはならないの。それまで、ここで待っているの。でも気にせずごゆっくり召し上がるようにお伝えして。」

 貴鬼は生返事をして石段を数歩上がったが、何か決意をしたらしく、くるりと振り返って叫んだ。

 「それじゃ、ムウ様がご飯を食べ終わるまで、こっちに来て一緒に話さないかい?」

 少女は驚いて岩に身をかくしたが、頬を染めながら再び貴鬼の方へ顔を向けた。一瞬わからなかったが、小さく顔を横に振っている。

 「ダメ? どうして。」

 愕然として貴鬼はムウの方を向こうとしたが、少女がまた小声で話し出したので向き直った。

 「そんなこと・・・許されないわ・・・。私みたいな侍女が、黄金聖闘士様と言葉を交わすなんて・・・。」

 「どうしてさ!? そんなことないよ!!」 貴鬼は階段を降りきって少女へ2・3歩近づいた。また、あののぼせるような香りにあたって、貴鬼はますます頭に血が上った。

 「そんなこと誰が言ったんだよ! ムウ様もおいらもそんなこと気にしないって! さあ、おいでよ・・・!」

 ぱっと、赤い花びらが散った。貴鬼が無理矢理に少女を引っ張ろうとしたので、その手を振り切って少女が飛びのいたのだ。貴鬼はなぜ自分がここまでするのかわからなかった。じり、じり、と子兎を捕らえようとするように、貴鬼は少女に詰め寄っていた。そう、一歩足を進めれば一歩後ろに下がってしまう、赤く美しい宝石を手に入れようとするかのように。

 ふと、貴鬼は視界が晴れたように少女の顔をとらえた。

 脅えている。箒をしっかり胸に抱え込んで、震える瞳で貴鬼を見下ろしている。

 貴鬼は初めて、目の前の少女が人間に見えた。背は高い方ではなく、繊細な体作りをしている、15・6歳の一人の娘に。

 自分が何をしていたのかに気付くと、貴鬼は心臓に水を浴びせられたように胸が重くなった。

 「・・・ごめんよ。おいら・・・おいら・・・。ただ、おねえちゃんと話をしてみたいって思っただけなんだ。」

 少女は箒を握り締めていた手を緩めて、肩を落として謝る貴鬼を見つめた。その眼差しに、貴鬼は怪しく輝く光でもない、むせ返るような強い香りでもない、母性的な優しさを見た。そして、叱られた後の子供のような目をして、貴鬼はもぞもぞ言った。

 「ねえ、どうしてもダメかい? 本当に、ムウ様はそんなこと気にするような方じゃないんだよ。おねえちゃんさえ気にしなくっちゃ・・・。ムウ様がいいっておっしゃったら来るかい?ムウ様に聞いてこようか。」

 少女が何か言おうと口を開いた瞬間、貴鬼の姿が歪んでその場から消えてしまった。



 あたたかいシチューを口に含みながら、ムウは傍らに現れた貴鬼に静かに目を向けた。貴鬼が、少女がいる岩陰に隠れてから数十秒後のことだ。貴鬼が顔を赤らめながら口を開こうとする前に、ムウが言った。

 「構いませんよ。お前が望むならそうしなさい。」

 目も口も全開にして貴鬼は喜び、何十段もある石段を二足で飛び降りた。岩陰からこちらの様子を伺っている少女に近づくと一言二言何か言い、少女が嫌がるのを無視して白羊宮の方へ引っ張ってきた。今や少女の顔はその瞳の色に近いほど真っ赤になり、弱弱しく「待って」を繰り返している。

 ムウにあと数段というところで、やっと少女は貴鬼の手を振り解いてその場にしゃがみこんだ。さっき盆を運んできた時と同じように、石段に目を落としたままムウの姿を見ようともしない。硬く胸のところで箒を握り締め、薄い肩で熱い息をついている。甘い香りが再びたちこめたが、貴鬼はもう何ともないようだった。ポンとムウの隣に座ると、横に座るように少女に勧めた。頑固として少女は身動きせずにいたが、見かねてムウが促すと、こわごわ貴鬼に隠れるようにして座り込んだ。

 その瞬間を待っていたように、貴鬼が足をばたつかせながら簡単な自己紹介をし、少女に同じことを尋ねた。少女の瞳は緊張のあまり、美しく潤んでいる。上気した顔をかすかに貴鬼のほうへ向けながら、ムウにやっと聞き取れるぐらいの小声で話し出した。

 少女は名をフィオナと言った。その姿にふさわしい、可憐で清楚な名だと貴鬼は思った。教皇の間で2年程前から食事係を勤めているらしい。9人分の盆をかかえて十二宮を下ってくるのは大変なので、空を飛ぶことができる彼女が配達の使命を受けたという事だった。そこまで話が及ぶと、ムウは食事の手をとめてフィオナの方を向いた。

 「あなたは魔女ですね? 現代にもまだ魔女が残っていたとは、知りませんでした。」

 ムウに話し掛けられてフィオナは貴鬼の影で身を硬くしたが、ムウの物腰が柔らかかったせいか、いくらか緊張をゆるめて静かに頷いた。

 「・・・え。そうです。魔女は、中世に行なわれた魔女狩りによってその大半が滅びました。生き残ったわずかな魔女達も、地方の村に隠れ住み、魔術を後生に伝えることなく人間の中にその血を絶やしていったといわれています。」

 「でも、おねえちゃんは魔女でしょ? やっぱり先祖が魔女だったんじゃないの?」 貴鬼が言った。

 「・・・わかりません。生まれ故郷の村には、かつて魔女狩りから逃れてきた魔女をかくまったという言い伝えがありましたが、それも大昔のこと。例えそうだったにしても、何百年という時の中で、人間の血の中に消えていってしまったはずです。私は・・・先祖帰りをしたのか、何故なのかわかりませんが・・・。魔女としてこの世に生を受けました。」

 一瞬、フィオナの瞳に暗い影が横切ったのを、ムウは見逃さなかった。貴鬼は興味深げに箒を覗き込んでいる。

 「これで空を飛ぶんだね。いいなあ〜、おいらはテレキネシスを使うけど、空を飛び回るってことはできないもんな。ね、空飛ぶ以外に何か魔法使えるのかい?」

 もう赤みもひいた白い顔を、貴鬼の方へ向けてフィオナは優しく目を細めた。

 「いいえ・・・。言ったように、魔術はほとんど伝わっていないし、教えてくれる人もいなかったわ。空を飛ぶのは本能的なものなの。他は・・・そうね、多少ヒーリングができるわ。でも病気を治したり、自分の傷を治したりはできないから、あまり役にはたたないけれど・・・。」

 ヒーリング? ムウはフィオナの横顔を見た。何故、魔女が神の癒しの力である心霊治療を行なえるのか?それに、第一この時代に魔女が、それもこのギリシャに生まれたという事もおかしい。何故ならば・・・

 ムウの思考も、貴鬼のおしゃべりも、突然の悲鳴にかき消された。

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