教皇の間のフィオナ1

 「え…? カストロさんがいなくなった…?」

 ギリシャアテネ郊外にある聖域、サンクチュアリ。ここは、神話の時代よりアテナ神殿を守護している、十二宮の頂に聳え立つ教皇の間―――

 その日も厨房から教皇の間へ食事を運んできたフィオナは、門番にカストロの蒸発を知らされて呆然と立ち尽くした。カストロとは教皇の側近を務めていた豪腕の男で、教皇への取次ぎは全て彼が行っていた。食事も、教皇の間へ続く巨大な門の前で、カストロがフィオナから受け取っていたのである。

 その彼が、忽然と姿を消した―――

 フィオナは食事の乗った盆を抱えたまま、困惑気味に、レリーフの施された教皇の間の扉を仰いだ。じめじめとした石造りの廊下には、今フィオナ以外には誰もいない。それもそのはず、教皇の間は側近や呼び出された聖闘士のみが立ち入ることが許される場所なのだ。だから普段、この場所には人気が無い。

 フィオナはもう一度振り返って廊下の先の門を見た。門の外には、門番を含めサンクチュアリに仕える雑兵たちがいる。だが、カストロに代わって教皇に食事を届ける者がいないため、その日はフィオナが直接教皇に食事を運ぶよう命じられたのだった。

 フィオナは扉に向き直って、白い腕をそっとその冷たい扉に乗せた。深い海底から聞こえるマグマの脈動のような、静かでいて、かつ重苦しい振動が扉越しに伝わってくる。フィオナは思わず手を離して、ごくりと唾を呑んだ。まるでこの館自体が生きていて、扉の前のフィオナを伺っているようだ。

 フィオナは扉から一歩身を引くと、少し遠慮がちに扉の向こうの人へ呼びかけた。

 「教皇様… お食事をお持ちいたしました。」

 暫しの間、鉛のような静寂が辺りを包んだ。やがて、分厚い扉の奥から低い声が漏れてきた。

 「…ウム… ご苦労、入りなさい。」

 その言葉を待っていたかのように、フィオナの細い腕が触れた途端、扉は重い音をたててゆっくりと開いた。

 深夜のような冷気がフィオナの頬を撫でた。広大な教皇の間には、物言わぬ巨大な石柱がその高い天井を支えており、床にはまっすぐに敷かれた緋の絨毯が暗闇に映えている。そして、間の突き当たりに、吊り下げられた分厚い幕を後ろにして、教皇玉座に腰をかけていた。

 「…教皇様」

 フィオナは吸い付けられるように床に跪いた。その人は十数メートルも先にいるのに、その絶対的な存在の前では顔を仰ぐことも出来ない。微動だにでもすれば、不可思議な力によって地に叩きつけられる心地さえするのだ。

 そう… まるで教皇とは、神のような存在であった。

 「教皇様、お食事を…。カストロ様がご不在との事で、衛兵に申し渡されてこの場までお持ちいたしました。」

 床に目を伏せたままフィオナはそう言いながら、胸が小刻みに震えるのを教皇に気付かれはしまいかと案じた。先の教皇は静かに息をつくと、絨毯に浮かび上がる白い蝶の姿をマスク越しに見た。

 「その通りだ。食事を取り次ぐカストロはいない。これからは、直接お前がこの教皇の間へ持ってきなさい。…サ、盆を私のところまで持ってきてはくれぬか。」

 フィオナはよろけないように細心の注意を払いながら立ち上がると、しずしずと玉座の方へ歩み寄った。やがて段差の前まで来ると、一旦跪いてから、おそるおそる教皇の膝の前まで近づいた。

 刺繍のほどこされた教皇のローブの裾が、フィオナの赤い瞳に映った。それがつと揺れたかと思った瞬間、フィオナの掲げた盆に大きな教皇の手がかかった。それと同時に、深くマスクで顔を覆った教皇が囁いた。

 「久し振りだな、フィオナ…。2年ぶりくらいか。元気でやっておるようだな。」

 フィオナは無意識に少し顔を上げると、数歩下がって絨毯に手をついた。

 「…はい…。――教皇様には、何とお礼を申し上げたら良いのか…。お陰様で、無事平穏に職務を務めさせていただいております。」

 教皇は傍らに盆を置いて、マスクの下でそっと薄く笑みを浮かべた。

 「そうか…。それは良かった。私の気遣いも、取り越し苦労にはならなかったようだな。この教皇の触れは、しかとサンクチュアリ中に行き届いているようだ。決して… ――魔女を迫害してはならんと。」

 フィオナは閉じていた瞳を開いた。真紅の輝きを放つ瞳が、2年前と変わらぬ教皇の姿をそっと捉えた。



 2年前、サンクチュアリ郊外の小さな村――

 その日も、教皇と側近であるカストロは人々を見舞うために教皇の間より赴いていた。からりとした秋の空が広がる昼下がりのことで、村人たちは家々から飛び出しては教皇を拝んだ。

 「苦しくても、必ず神が皆を見守ってくださっています。信仰を忘れずに、謙虚に日々を送るのですよ。」

 教皇は純白のローブを風にたなびかせながら、石造りの家が立ち並ぶ狭い坂を歩んでいく。教皇を慕う子供たちが、歓声を上げながらその後に続いた。平和なひとときだ。教皇はふと足を止めると、小鳥が戯れながら飛んでいく様を見てそっと目を細めた。

 だが次の瞬間、教皇が足を止めたすぐ横の家から、激しく争う声が響いてきた。女が金切り声で何か叫んでいる。物が落ちる音がしたかと思うと、とっくみあうような振動が外壁を揺るがした。

 「くっ…!!」

 その家の2階にある小さな寝室では、女が2人、果物ナイフを争って掴みかかっていた。背の高い年上の女が、ようやくもう一人の手をふりほどいてナイフを奪い取ると、返す手で相手の頬をぶって床に叩きつけた。

 女は激しく肩で息をついてから、甲高い声を震わせて床に伏す女に罵声を浴びせた。

 「馬鹿ッッ…!! 死のうなんて、馬鹿げた考えはいい加減捨てたらどうなのっ!!?」

 力尽きたようによろりと床から身を起こしたのは、乱れた茶色い髪をした、14くらいの少女だった。年上の女のものなのか、身に余る紺の服からは、その血肉さえも透けて見えるのではないかと思うほどの白く透き通った細い足がのぞいている。髪に覆われて、伏せたその顔は窺い知ることは出来ないが、深い悲しみと絶望に支配された、今にも散ってしまいそうな花に似た姿である。

 すっかり興奮して仁王立ちする黒髪の女は、その時、部屋の入り口に立った人物が誰であるかに気付かず、突然の来訪者に一瞥をくれてしまった。が、次の瞬間首元まで一気に青ざめ、危うく落としたナイフに踵を突き刺すところだった。

 「どうしましたか。」

 教皇は身をかがめて入り口をくぐると、争いで砕け散った花瓶に目を留めて眉をひそめた。女はひたすら狼狽して意味不明の言葉を発し、床に跪く少女は教皇の方を見ようともしない。

 すると、共に部屋に入ろうとしたカストロの背後から、背のまるまった老婆がちょこちょこと割り込んできた。老婆は教皇に手を合わせて拝んだ後、割れた花瓶やナイフを片付けて女をなだめ、目を伏せる少女の横にちょこねんと座り込んだ。

 老婆の話はこうであった。

 この少女は、海辺に打ち上げられていたのを村人に救い出され、うちにやってきたが、すっかり心を閉ざしてしまっていて、ちょっと目を離すと死のうとするため夜も眠れないのだという。

 「何があったのか知りませんけど、こんな若い娘が死のう死のうなんて不憫でねぇ…。」

 教皇は、しわで覆われた口でもぞもぞ話す老婆の隣に目を向けた。少女は相変わらず頭を垂れたままで、その姿からは全く生気が感じられない。依然として話し続ける老婆を教皇は手で制すると、そっと膝をついて少女の頭に手をやった。

 瞬間、電流が走ったように、少女は吃驚して教皇の顔を仰いだ。教皇もまた、少女の顔に驚きを覚えた。カストロも、そのただならぬ雰囲気に目を見張った。

 真っ白な少女の小顔に大きく開いた真紅の瞳が、一気に教皇の中に飛び込んできたからである。実際、そう疑うほど、強烈に少女の瞳は教皇の心を射た。いや、少し離れて立つカストロにでさえも、その眼光は響いたのである。

 教皇は思わず少女の頭から手を離した―― この娘は、人間ではない―― そう、直感的に悟ったからだ。

 だが、その鈍い輝きの奥に深い絶望を見て、教皇は再び手を置いた。少女は相変わらず爛々とした光を赤い瞳から放ちながら、頭に触れた手の不思議な感覚に精神を研ぎ澄ましている。

 教皇は暫く、魔力の宿った瞳の奥の、底知れぬ悲しみを吟味するように少女の面を見つめると、マスクの下で瞳を閉じて優しく語りかけた。

 「…何が、あなたをそのような深い悲しみに引きずり込んでいるのかはわかりませんが、娘よ、はたして死があなたを救うのだろうか? 死は苦しみではない。安息に満ちた眠りでしょう。ですが、聞きなさい。それでも、光は生きている間にしかありえないのです。温もりも、喜びも…。生は苦という言葉があるように、その逆も然りなのです。人は、悲しみや苦しみにこそ心を捕らえられ易い。光よりも、闇に身を投じやすいもの…。だが、忘れてはいけない。外をご覧なさい。こんなにも世界は光に溢れている。私の手の温もりを感じなさい。あなたを決死の思いで止めようとした、彼女の叫びに耳を傾けるのです。

  さあ… あなたは一人ではない。闇は光に隠れている。立ち上がるのです。自ら光へ歩んでいくのです。闇は、決して去るものを追うことはしないのだから…。」

 そう言ってふと開いた教皇の瞳に、少女の赤い瞳が浮かび上がった。紅色の瞳のずっと奥… 何万光年という次元を突き抜けて、少女自身でさえも知りえない魂の遥か彼方に―― 教皇は絶大的な闇を見た。と、同時に、不可侵的な崇高な輝きを見た。

 (この… 娘は、一体何者なのだ…?) 少女の中に巣食う闇と光は、神の化身といわれる教皇でさえも恐れを抱くほど、偉大なる力に支配されている。だが、ふと目を戻せば、そこにいるのは傷ついた、年端も行かない乙女の姿があるだけだ。

 教皇はもう一度少女の頭にあてた手に力を込めて、その瞳を見つめ返した。やはり、その吸い寄せられるような眼光は人間のものではない。
 教皇は息をついて立ち上がると、カストロを促して部屋を立ち去る間際、再度少女を振り返った。

 「もし、あなたが光の方へ導いてくれる存在を必要とするならば、一度サンクチュアリの私の元へ来なさい。許可はカストロを通じて、いつでもあなたが入れるように出しておこう。良いですね、再び深い闇があなたを呑みこもうとした時は――」



 数日後。サンクチュアリに出入りする者を監査する検問所の衛兵は、突然現れた少女の姿に目を見張った。年増の女に付き添われてそろそろと門に近づいてきたその少女は、衛兵たちがこれまで経験したことのないような妖艶さを漂わせている。見た目は美しい、清楚な娘なのだが、その、見る者全てを射るような赤い瞳から放たれるものなのか、少女が近づけば近づくほど辺り一面に甘い香りがたちこめ、衛兵たちを陶酔させた。

 薄い水色の服におさげを結った少女は門前まで来ると、付き添ってきた女を振り返って深々と頭を下げた。黒髪を乱暴に束ねたその女は、少女の姿を涙のうちに見つめていたが、ニッっと悲しげな笑みを浮かべると少女の肩を軽く叩いた。

 「頑張るんだよ…。辛くなっても、教皇様はお前の味方なんだ。生きれば、きっとそのうち… ネ。」

 女に見送られて、少女は門の衛兵の側まで来た。穴の開くほど自分を見つめる衛兵たちの視線を全身に浴びながら、少女はこらえるように手を握り締めて、消え入るような声で話し出した。

 「………あの……。……私… 数日前に、教皇様にここへ… サンクチュアリへ来るようにと、その………」

 長い沈黙に、少女はおそるおそる顔を上げた。門を守る衛兵たちのみならず、門を出ようとする者、少女と同様サンクチュアリに入ろうとする者、少女を取り囲む者全てが、魂を抜かれたように少女を見つめて佇んでいる。

 少女は唇まで青ざめて、その場から駆け出したくなった。だが、女の見守る視線を背に感じて、スカートの裾を固く握り締めると大きく息を吸った。

 「あの―― 私…!」

 「おお、来たか。」

 不意に後ろから太い声がして、呆然としていた衛兵や人々は急に我に返った。見ると、遠くから少女を見つけて走ってきたのか、カストロが息をきらして立っている。衛兵は慌てて職務に戻ろうとしたが、再び少女を見てその魔性の力にとりつかれてしまった。カストロもまた、少女の瞳に魂を吸い取られるような感覚に襲われたが、何とか自制心を保ってその姿から目をそらした。

 「…こいつらには言い渡しておいたのだが、教皇様の危惧通りこのザマだ。サ、来なさい。連れて行ってあげよう。」

 夢見心地の衛兵をかきわけて、カストロは門を開けると少女を中に招いた。少女はもう一度女を振り返った。足を止めてこちらに魅入る人々の中で、女は笑みを浮かべて手を振っている。少女はまっすぐ女に向き直ると、瞳を閉じてそっとお辞儀をした。

 やがて、カストロと少女が遠ざかると、人々は正気を取り戻して、只者でない少女の存在を噂し合った。

 歩く岩のようなカストロの後に続きながら、少女は必死に視線を落として人々の目に耐えた。門の辺りは雑兵であふれかえっており、十数メートル先の雑兵までもが、驚いて少女を振り返るのだ。

 少女が近づいては通り過ぎる度、その場の時間は停滞した。そしてまた、枯れ草が次第に火に覆われていくように、少女の噂もサンクチュアリ中に響いていった。

 「教皇様がおられる教皇の間はこの先だよ。」

 いくつかの関所を抜けて、やっと人気の無い岩場にたどり着いた時、カストロは岩山の頂上を指差して言った。仰ぐと、遥か頂に石造りの神殿が浮かび上がっている。そしてそこまでには、足場の悪い岩道が延々と続いているのだ。

 カストロは、遅れて歩いてくる少女を時折振り返りながら、指を立てて説明した。

 「教皇の間は、側近である私や招集のかかった聖闘士しか入れぬ神聖な場所だ。神殿には、教皇様の身の回りの世話をする雑兵や使用人が仕えている。私を含め、彼らはこの道を通って外部との行き来をするのだが、大抵は一度教皇の間に仕えれば、ほとんど外には出ない。出るには、幾重もの厳重な審査が待っているからな。

  だから、教皇の間は、このサンクチュアリの要にして最も閉ざされた空間なのだよ。君は、今回だけ特別だ。仕える雑兵や使用人ですら、決して教皇様に謁見することは許されないのだからな。――さあ… もうすぐだ。きつかったらちょっと休むといい。」

 少女は紅潮した顔をかすかに横に振って、唇から熱い息を漏らしながら必死に足を進めた。先で待つカストロに一瞬目を向けては視線を落とし、膝を押さえながら坂を上っていく。

 やがて道が平らになり、教皇の間の巨大な石柱がその姿を現したところで、初めて少女が口を開いた。もちろん、カストロがその巨大な肉体に似合わぬ小さな耳を、そばだてなければならないほど小さな声であったが。

 「……あの… 先程の話ですけど……、セイントって何でしょう…?」

 カストロは、苦しげに息をつく少女を見下ろした。

 「ああ… そうか。君はサンクチュアリの事をよく知らないのだな。聖闘士というのは、女神アテナに仕えて地上を守るために戦う、聖なる戦士のことだ。ここサンクチュアリは聖闘士の発祥の地で、教皇様はアテナに唯一拝謁できるお方。そして、アテナに代わって聖闘士を統率するお方なのだよ。聖闘士は普段、世界中の思い思いの場所に散らばっているが、教皇様のお呼びがかかればすぐにでもこのサンクチュアリに飛んでこなくてはならないのだ。」

 「アテナ… ギリシャ神話の、アテナですか…。」

 カストロは人差し指を横に振った。

 「アテナや神話の中の神々が、架空の存在だと思ってはいないか? それは違う。――見てごらん。」

 カストロは、教皇の間の先の、霧でかすんだ建物を指差した。

 「…あれは、神話の時代からずっと受け継がれてきた、聖なるアテナ神殿だ。何を隠そう、今この時にも、アテナはあの場所におられるのだよ。嘘じゃあない。アテナは神話の時代から、地上を支配しようともくろむ邪悪と戦われるために、幾度も人の姿を借りて降臨なさっているのだ。今回も、11年前に降臨なされてから、ずっとあの神殿に――。聖闘士ではないわれわれは感じ取ることが出来ないが、このサンクチュアリはアテナの聖なる気に満ちているのだ。」

 カストロはもう一度少女の顔を見た。少女は眉をしかめている。

 「まあ… 今までサンクチュアリと無縁に生きてきた君にとっては、信じがたい話だろうが…。真実は真実だ。」

 「いいえ…。」

 少女は、蒼白な顔をアテナ神殿へ向けた。

 「…信じます…。人間のほかに、どのような存在が地上にあろうとも…。…アテナの聖なる気…。ど、どうりで…。」

 2人は教皇の間へ続く巨大な門の前に来た。槍を持った門番たちも下の雑兵同様、少女に魅入って、上の空のまま2人を中へ通した。カストロは薄暗い廊下の先にある扉の前に立つと、石壁が揺れるような太い声で叫んだ。

 「教皇様、先日の娘が参りました。」

 扉の先へは少女だけが通された。だが、先程の道のりで体調を崩したのか、少女は倒れそうになりながら足を進めていく。間の中央辺りまで来ると、がっくりと膝をついた。もはや、完全に血の気を失った少女の顔には、赤い瞳だけが不気味な光を放ち、床についた手は、その身を支えるのに困難なほど小刻みに震えている。

 「具合でも悪いのか?」

 玉座に腰をかけていた教皇は、少女の尋常でない苦しみように思わず身を乗り出した。少女の薄い唇からは不規則な呼吸が漏れ、答えることもままならない。

 見かねて教皇が立ち上がった時、やっとのことで、少女の口から出た言葉は意外なものであった。

 「ま… 魔女」

 教皇は、マスク越しでよく聞き取れなかったのだろうかと疑った。だが、少女は必死に胸を抑えながら、わなわなと続けた。

 「わ… 私は教皇様…… 私は、魔女なのです…。魔女…なのです。」

 少女は何度も魔女という言葉を繰り返した。最も、後のほうでは声が出なくなって、唇だけが動いている状態だったが。しかし、教皇は驚きの中に深い合点を見出して、苦しみに喘ぐ少女を見つめた。魔女…。そうだろう、人間ではないことはわかっていた。しかし… 魔女とは?

 魔女が中世の魔女狩りによって、その大半が滅んだ事は教皇も知っていた。魔女はやがて年月の中にその血を絶やしていき、決して甦ることも無いだろうと思われていた。少なくとも、このギリシャでは――― あり得ない。

 何故ならば、魔女とは闇の存在であるからだ。そう、もう二度と魔女が甦らないだろうと教皇でさえも信じていた理由は、アテナの封印だった。繰り返し繰り返し、人類の歴史の中で、アテナは邪悪を封印してきた。そして魔女も、大半がその力を失った後では、世界に満ちる聖なるアテナの封印の影響で、その力は封じ込められたはずなのだ。

 そうでなくとも、二百余十年の年月を経て、アテナが降臨したこのギリシャで、魔女が生まれることはまず無いといっていい。確かに、目の前の少女はアテナより早くこの地に生を受けたのだろうが、しかし、数百年に一度のアテナ降臨の時期に合わせて、魔女が甦るとはやはり考え難い――

 教皇の思考は、少女が床に身を沈めたことで掻き消された。

 「しっかりしなさい。――そんなに気分が悪いのなら、無理して今日来る事もなかったろうに。今、カストロを――」

 側に膝をついた教皇のローブの裾を、白い腕が掴んだ。少女は死相を浮かべて訴えた。

 「ア… アテナ…」

 「…何…?」

 「先…程…、この場にはアテナの… 聖なる気が満ちていると聞きました。聖なる…気が……。わ… 私…は、魔女だから… 聖なる…ものには、拒絶反応が出るのです…! 教会や… 聖地と言われる場所では… 私は…」

 うっ、と、少女は再び倒れこんだ。その体を教皇は支えて、あの日、少女の瞳の奥底に見た深い闇を思い出した。

 「ならば尚更のことだろう。カストロに言って、すぐにでもこのサンクチュアリから――」

 「嫌です!」

 息も絶え絶えになりながら、少女は強い力で教皇にすがりついた。

 「お見捨てにならないでください! 私には… 私には、行く所などありません!教皇様も気付いておいででしょう。私の… 私の体は、魔力に支配されているのです…!ここに来るまでだって…。と、とても人間の中では生きていけない身なのです!私は… 魔女だから…。魔女は… 魔女は決して、決して人間の中では……」

 少女はようやく無礼に気がついたのか、教皇の手から離れて床に手をついた。

 「どうか… どうかサンクチュアリに置いてください…。お願いします、どうか、教皇様がおられるこのサンクチュアリに置いて下さい…。私は…… 私は、生きることも… 死ぬことも許されぬ身なのですから…。」

 少女はやがてフィオナと名乗って、これまでのいきさつを隠すことなく教皇に打ち明けた。その内容は聞くにも残酷なものだが、フィオナは言葉に詰まることもせず、むしろ、積もり積もったものを全て吐き出そうとするかのような勢いでたんたんと話した。やがて、話が村人に救出されたところにまで及ぶと、フィオナは全身の力が抜けたように教皇の腕へ倒れこんだ。

 「そうか……。そうであったか…。――そのようなことが、今のギリシャでも…。いや、しかしよくぞここまでたどり着いたものだな、フィオナ。安心なさい。もう、ここは… ここには、あなたを苛むものはもう、ない。私が許さん。誓おう。」

 教皇は、羽を痛めた蝶を慈しむようにそっとフィオナの体を起こすと、村でしたように栗色の頭に手を置いた。半ば気を失いかけていたフィオナは、教皇の手から放たれる不思議な温もりに、全身の痛みが和らいでいくのを感じると、瞳を開いて、マスクに覆われた教皇の顔を仰いだ。かすかに覗いたその口元が、フィオナの瞳を受けて優しく微笑んだ。

 「さあ、これで少なくとも、アテナの小宇宙に苛まれることはないでしょう。後はカストロに頼んで、身の振り方を考えてもらうといい。あなたの身の安全は私が保証する。あなたはサンクチュアリにおいて、もはや魔女ではない…。それに、おそらく暮らしていくうちに、魔女の血もアテナのお力によって浄化されるでしょう。アテナは、救いを求める者を皆平等に愛されるのだから…。」

 幾分体調も回復して、カストロに付き添われて出て行くフィオナの後姿を、教皇玉座に腰掛けて見送った。今聞かされた、あの少女が強いられ続けてきた過酷な運命を思う。あの細い体に蓄積されてきた、修復不可能と思われるほど深く、大きい心の傷を思う。

 よくもここまで耐えてきた―― いや、フィオナは耐え切れるほど強くは無かった…。実際、この教皇ですら耐え得るかわからないほどの苦境を―― フィオナは抗うことも出来ず、ひたすら生きるしかなかった。死ぬことも許されない… 生かされてきたのだ。

 「魔女…か。」

 教皇は、再び魔女の復活の謎について頭をめぐらせた。そして、フィオナの瞳に見た、大いなる闇と光を脳裏に描いてみる。

 (あれは果たして、魔女のものだろうか?) そもそも、魔女とは悪魔と契約を結ぶことにより、闇の力を得ていた下劣な者たちのことだ。魔女と契約を結ぶ悪魔の程度も多寡が知れていて、いくら悪魔に等しい力を得ると言っても、低級魔族のものとそう変わりは無いはずなのだ。

 だが、あの闇は… フィオナの瞳に見た闇は、地上に現れる下等な悪魔のものではない―― いや、悪魔の次元を超えた、逆説的な言い方をすれば、崇高な輝きに満ちた闇、そう… まるで、神そのもののような――

 共に瞳の中に見た光と同様、まるで、神のように不可侵的な存在感を放っていたのだ。

 相反しながら共生する闇と光―――

 『ククク… まるで、私たちのようではないか…?

 突如頭上でした声に、教皇は飛び上がった。間には誰もいない。教皇はどこを見るでもなく天上を仰ぐと、強く歯軋りして叫んだ。

 「私たちと同じだと!?」

 低い声は、サンクチュアリ中に響くようでありながら、教皇の脳裏だけに静かに語りかけた。

 『そうだ…。私たちほど、強烈な闇と光を持ち合わせている者は他にはおるまい。お前が光なら、私は闇だ…。フフ、だが、その光も私という闇によって支配されつつあるがな…。

 「黙れ!! 誰がお前などに支配されているか! お前はことごとく私を邪魔してきただけだ…! お前のせいで私は…… わかっているのか!!」

 『クク、そう怒鳴るな。側近が入ってくるぞ。…しかし、何故あの娘をサンクチュアリに入れた?あの深い闇と光は、只者ではないぞ。わかっているのか? お前の善意が、この先災いをもたらすことになるかもしれんのだぞ!

 「黙れ!」

 教皇は勢い良く踵を返すと、背後の幕に歩み寄った。

 「私は… 人々を愛しているのだ! 苦しんでいる者は、何者であれ救いの手を差し伸べるのだ!私は… 善だ! 闇夜を照らす光なのだからな!」

次へ:id:witchsanctuary:20120715