ジャミール編2

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 「貴鬼!!」

 ケタケタと高い笑い声を上げて、貴鬼はフィオナの箒にまたがり宙を飛び回った。正確に言えば、テレキネシスで箒を飛ばしているのだ。その上に貴鬼は危なっかしく乗っている。

 「やめなさい、貴鬼! 怪我をしますよ!」

 フィオナがいくら注意しても、貴鬼は一向に降りてくる素振りが無い。ムウにいいつけると言っても効果は無かった。貴鬼の姿を追って館の方へ目をやると、そのムウが最上階から顔を出している。

 「貴鬼。いたずらが過ぎますよ。フィオナが困っているでしょう。」

 ムウに叱られると、風船がしぼんだように貴鬼はしょぼくれた。そして、ぎこちなく下降してくる。やがて地面に足がつこうとした刹那、貴鬼は箒から手を放した。

 「駄目ッ!!」

 フィオナが叫ぶや否や、箒は手を放した貴鬼を乗せたまま急上昇して、貴鬼を空中に振り飛ばした。

 フィオナと貴鬼の悲鳴が、ヒマラヤの空に木霊した。だが、目を覆うことは無い。貴鬼は宙に浮かぶことができるし、何よりも、その前にムウが念力で止めていた。

 やがてゆっくりと貴鬼が地面へ降りてくると、すっかり血の気の失せたフィオナが駆け寄った。貴鬼の無事を確かめると涙を浮かべた目に怒りを込め、気まずそうに視線を落とす貴鬼の顔を覗き込んだ。

 「今までに何度も、私の箒に乗ってはいけないと言ったでしょう。危ないからそう言っていたのよ・・・!」

 闘牛の様に空中を旋回していた箒が、ゆっくりとフィオナの側に降りてきて、命が尽きたように地面に転がり落ちた。それと同時にムウが姿を現した。

 「貴鬼。この箒には魔力がかかっているのですよ。――その程度も見抜けないとは、まだ修行が足らないようですね。」

 「魔力が・・・?」 貴鬼は箒を覗き込んだ。

 「嘘だろ? だって、フィオナは空飛ぶ以外に魔法は使えないって言ってたじゃないか。」

 フィオナは大切そうに箒を胸に抱え込んだ。

 「私は、…魔女は、自分の箒に魔法をかけるの。もちろん、誰かに教わったわけではないけど…。でも、魔力を注いで飛ばす箒には、自然と使い手の力が宿るわ。」

 貴鬼は柄の太い箒を覗き込んだ。言われてみれば、何かしらの魂が宿っているように見える。

 「箒は主人に従い、主人だけを乗り手とするの。だから、例えテレキネシスのような別の力を使っても、箒は精一杯抗うわ。だから、今のように手を離した途端に、乗り手を振り払うの。だから、いい、貴鬼。もう、箒に乗らないって約束して。」

 貴鬼はぽかんと話を聞いていたが、やがて恨めしそうに箒を睨んだ。

 「じゃあ、最後まで力を抜かなければいいんじゃないか。」

 「貴鬼。」 ムウが顔をしかめると、慌てて貴鬼は跳ね起きた。

 「大丈夫だよ! そんな箒、もう頼まれたって乗ってやるもんか。へっへーんだ、べーっ!」

 「まっ」 フィオナはあきれて貴鬼の姿を見送った。ムウも苦笑に近い表情をした。

 「――貴鬼はあの通りいたずらが好きで、時折過ぎることがあるのです。それでも以前は素直に言うことを聞いていたものだが、フィオナ、あなたには甘えが出ているようだ。」

 フィオナは立ち上がると、愉快そうにクスリと笑った。

 「あの子はまだ小さいんですもの。あの位元気が無いと。それに、素直でいい子ですわ。」

 ムウはフィオナの顔を見下ろして、静かに笑みを浮かべた。

 「上がりましょうか。」



 ほろ苦いお茶をコップに注いで、フィオナはムウに差し出した。昼間から、こうしてムウと2人でお茶を飲むなど初めてのことだ。

 フィオナは慣れた手つきで茶菓子を盛り付けると、遠慮がちにムウの向かいに座り込んだ。暫く2人は無言でお茶をすすっていたが、先に沈黙を破ったのは、意外にもムウだった。

 「ここでの暮らしは慣れましたか?」

 フィオナはお茶を机において、少し、ムウの顔から視線を落として答えた。

 「はい、お陰様で…。ここへ来て半月余り経ちますけど、毎日が充実していて楽しいです、本当に…。」

 「そうですか、それはよかった…。」

 ムウは再びコップに口をつけようとしたが、また沈黙が訪れるのを悟って飲むのをやめた。

 「先程… あなたは貴鬼がまだ小さいと、だからいたずらや甘えも当然だと、言いましたね…。」

 「え、ええ…。」

 「だがフィオナ、聖闘士を目指す者にとって、そのような感情は妨げにしかならないのです。本来、聖闘士は死と隣り合わせの修行にひたすら励むもの…。地上の平和を守るためには、子供に与えられるべき当然の権利を一切剥奪して強くならなくてはなりません。…私は正直、貴鬼を甘やかせすぎかと思っている。特にフィオナ、あなたに関しては…。」

 さっと、フィオナの顔から血の気が失せた。

 「…申し訳ございません…。知らずとは言え、身勝手な意見を…。」

 「いえ… 違うのです。だからこそ、あなたには感謝しているのです…。」

 ムウの意外な言葉に、フィオナは目を丸くして顔を上げた。ムウはお茶に目を落としたまま、言葉を吟味するようにゆっくりとした口調で続けた。

 「確かに… 聖闘士の修行の場に、女性の存在はふさわしくないかもしれない。甘えを招きますからね…。だが、私は貴鬼に、聖闘士がたどるような冷徹な道を強いたくはないのです。貴鬼にはもっと、人間として多くの可能性を秘めた聖闘士に育って欲しい。当然、強くなることは必要でしょう。だがそのために、人の温もりを遮断することが、果たして適切なのか疑問に思うのです。

  地上の平和を守るべき聖闘士が、守るべきものを肌で知らずに務めを果たせるとは思えない。むしろ、戦いの中でしか己を保てないようであれば、地上に平和が訪れることは無いでしょう。

  …だから、貴鬼にはあえて、いたずらや甘えなどの自然な欲求を認めてあげたい。義務に縛られるのではなく、人間として、もっといろんな事に触れさせたい。自由に成長して欲しいのです。だから――…」

 ムウはそっと顔を上げた。その瞳に、赤い花の姿が浮かび上がった。

 「フィオナ…。あなたには貴鬼の心のより所であって欲しい。暖かく包み込んであげるような存在であって欲しいのです。勝手にこのような地に連れてきて、勝手な言い分かもしれませんが…。」

 「ムウ様…。」

 「あなたのような若い人が、このような人里からかけ離れた地に閉じこもるのは好ましいことではありません。以前にも言ったように、あなたは使用人ではない。留まるも去るも、あなたの自由だ。だが… 少しだけでいい、このジャミールの地での暮らしを、長い目で考えてくれれば私も幸いです…。貴鬼の成長を見守るつもりで…。」

 ムウはフィオナの顔色を窺った。彼自身、なぜ、こういう話の展開になったのか意外だったのである。

 確かに、貴鬼への思いは真実だし、フィオナに留まっていて欲しいという願いは、常にムウの心を突いて止まなかった。だが、まさか面と向かって依頼するなどとは夢にも思わなかったのである。何か理性を超えたものが、彼の口から意図しない言葉を言わしめたのだった。

 何千もの言葉が空回りする喉の奥で、心臓がゆっくりと、重苦しく鼓動を打っているのがわかる。ムウは思わず膝を握りしめた。何故、このようなことを言ったのか?何故…。

 いかなる時も冷静に振舞っている彼でも、フィオナの前ではそうはいかなかった。黄金聖闘士でさえも魅了してしまうほどの魔力を持ったフィオナ――― 夜に2人で星を見る時でも、日常でふと、家事をするフィオナの姿を見かける時でも、そして今でも…

 常にムウは、聖闘士として誇る理性をフィオナにかき乱されるような感覚を覚えていた。だが、もちろんその精神は脆弱ではない。常人を超えた体感に目覚めている以上、幾重にも張られた理性の壁がムウを冷静に保たせた。彼を思慮深くさせた。

 だが―― 今だけは…。

 貴鬼への思いを語るという一応の段取りは踏んだものの、理性よりも情熱の方が先に出るという形になってしまった。ムウは知らないのである。どのような悟りを開いた超人でも、最後まで彼らを苛ませたのが何だったのかを。そして、それは決して忌むべきものではなく、超えるものでもなく、人間が人間である証として持ち得るもの、どんな説教よりも、真の価値があるものだと言う事を。

 ムウは、とうに無くしたと思っていた動揺を抑えきれずにいた。フィオナの顔を直視できない。父親の叱りを受ける子供のように、ただ背を丸くしてうつむくしかできないのだ。

 ふと、視界の端に写るフィオナの顔が曇った。しまった…。ムウは尚更のこと胸が寒くなる思いがした。愚かだった。共に貴鬼の成長を見守って欲しいなどと、他意があるとしか捉えられない。

 だが、フィオナの口から出た言葉は、ムウの予想に反したものだった。

 「…いいんですか…。」

 驚いてムウは顔を上げた。見ると、かすかに紅潮したフィオナの顔には涙さえ浮かんでいる。震えを抑えるように、しかと胸を抑えながら、けなげに唇をかんで嗚咽をこらえているのである。

 「いい…んですか…? この先―― いても…。ずっと…… 留まっていても。――お許しいただけるのですか…?」

 突然、はじけたようにフィオナは両手で顔を覆った。その細い体に余すところ無く蓄積されてきた、深い孤独と絶望が、ついに溢れ出たのである。声なき声で、しかし、それらを全て吐き出すようにフィオナは泣いた。ようやく、彼女の救われぬ運命も休まる時が来たのである。

 ムウは暫く唖然として、花が露にぬれる様を見つめていたが、再び意図せずに、いや、今度はムウ自身の意識も加わって、勢い良く立ち上がると、机越しにフィオナの薄い肩を掴んだ。フィオナは気付かないのか、構う気配が無い。だが、ムウはその手に力を込めて、熱を含んだ口調で語りかけた。

 「もちろんです… フィオナ…。あなたが望むのならば、あなたさえいいのなら、この先、ずっといてください。――貴鬼が巣立った後でも、ずっと…。」



 ジャミールで暮らし始めて、一ヶ月近くが経とうとしていた。何の変化も無い、至って単調な生活が続いたが、誰も退屈を覚えた様子は無い。実際、3人にとって、この日々がこれまでの人生の中で最も充実していた。

 朝、広大な山脈に、長い影を落としながら日が昇り始めると、ムウの館でもあたたかい煙が調理場から立ち昇る。一点の曇りも無い青空が広がる頃には、フィオナと貴鬼が談笑する姿が見られた。やがて、空に青い月が顔を出すと、貴鬼のおしゃべりが明かりと共に窓から漏れた。そして、数多の星座がジャミールに降り注ぐと、2つの影が、月明かりにその輪郭を浮かび上がらせた。

 標高の高い山地は天候の変化が著しい。遥か遠方の頂まで見渡せると思った次の瞬間には、果てしない雲海が山々を覆い尽くすものだった。しかし、フィオナが来てからというもの、ずっと晴天続きだ。にわかに気温が上昇した気さえする。

 いや、実際、この地の自然の厳しさは和らいでいたのである。

 「ああっ!!? ムウ様ああぁぁ!!」

 館から数キロ離れた岩場で修行に励んでいた貴鬼が、突然声を上げた。それまで岩に腰掛けていたムウが何事かと貴鬼の隣に立つと、貴鬼が覗き込む先には一輪の花が咲いていた。ムウもまた、驚いて花を覗き込んだ。

 「こんな所に花が・・・ いや、植物が根を張るとは・・・。」

 「すごいや! おいら、ジャミールで花なんてはじめて見た! そうだ、フィオナに摘んでいってあげよう――」

 フィオナは館の傍らで、洗い物を干していた。不意に傍らに現れた貴鬼が、いたずらっぽそうに笑いを浮かべているのを見て、フィオナも微笑んだ。

 「何を後に隠し持っているの?」

 「へへへ、何だと思う? 当ててごらんよ。」

 フィオナは一応考えるふりをしてから、困った顔をして首を横に振った。貴鬼はそれを見てにっと笑い、そして得意げに手をフィオナに突き出した。覗き込むと、肉付きのいい手には、黄色い、小さな花が握られている。

 「まあ・・・。」

 「先の岩場で咲いていたんだよ。珍しいんだぞ、ジャミールには草なんて生えないんだから。これ、フィオナにあげるよ。」

 フィオナのこぼれるような笑顔を貴鬼は頭に描いていたが、その眉が曇ったのを見て驚いた。フィオナはそっと貴鬼の手ごと花を包むと、優しく貴鬼の顔を覗き込んだ。

 「ありがとう。貴鬼の気持ちは嬉しいわ。でも、このお花は土へ返してあげましょう。お花だって、生きているんですもの・・・。無下に摘み取ったりしたら、可哀想だわ。」

 「あ・・・」 貴鬼は手の中の花を見つめて頭を垂れた。その顔を、フィオナは優しく撫でて箒をとりに館に入った。

 「ねえ… 水に活けてやらないのかい?」

 館の側で、花を埋めようと土を掘り返すフィオナに貴鬼はおずおずと尋ねた。すっかり元気は失せ、叱られた子供のようにしょぼくれている。フィオナはその顔を見上げると、そっと優しく微笑んだ。

 「そうね、水に活けた方が飾りにもなるし、花も枯れることは無いわ。でも、やっぱり生まれた所で、自分の力で生きることが花にとっては幸せなんじゃないかしら。太陽の光を浴びて、大地から栄養をもらって――」

 茎を埋め終わると、フィオナは立ち上がって貴鬼を抱き寄せた。貴鬼もようやく笑顔を見せて、太陽へ向かって背伸びする花を眩しそうに覗き込んだ。

 「どんなに美しいものも、摘み取って自分のものにする権利なんて誰にも無いわ・・・。そう、例え神にだって・・・。」



 ここは天国か――――

 一面に花畑が広がっている。陽射しは柔らかく空は澄み切っていて、地上のどこかだとは思えない。そう、おそらくは可憐な妖精が飛び交う、神々の時代の風景だろう。

 そこに、ムウはいた。甘い香りを放つ花の海を歩いている。ふと目をやると、向こうの方に、一段と美しい輝きを放つ花を見つけた。

 フィオナだ。たくさんの花に囲まれて、まるで天女の様に光り輝いている――

 フィオナはやがてムウに気づき、静かに微笑んだ。ムウもまた笑みを浮かべ、フィオナの方へ歩み寄ろうとした。

 その途端、踏みしめた足元の花が一斉に朽ち果てた。驚く暇もなく、一瞬にして一面の花畑は死の世界へと変貌した。咲き乱れていた花々はどこへ行ったのか、辺り一面には黒いつたがひしめき、空も漆黒の闇に支配されている。

 しかし、フィオナの周りだけは依然として光に包まれていた。純白の花々は、フィオナの気を惹こうと花びらを舞わせ、フィオナは夢中になって花を摘み取っている。

 次の瞬間、その背後に巨大な闇が迫った。ムウは駆け出した。力の限り地を蹴った。しかし、フィオナとの距離は縮まらない。

 見る間に、フィオナの摘んだ純白の花が黄色に変色した。

 ―――フィオナッッ!!!

 闇をつんざく悲鳴にムウは飛び起きた。暫くは激しい息をついていたが、夢だとわかると瞳を閉じて動悸を静めた。

 ――何だったのだ、今の夢は・・・? 窓の外を見ると、寝る前にフィオナと眺めた月が、明るみ始めた空へ溶けかかっている。

 ムウはその空に目を凝らした。何か暗い影が、この地上を覆おうとしていた―――

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