教皇の間のフィオナ3
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魔女が教皇の側近になった――
だが意外にもその報せは、門番と厨房の従業員、そして、教皇の間に仕える一部の雑兵にしか行き渡らなかった。と、言うのも、射手座の黄金聖衣をめぐる青銅聖闘士とサンクチュアリとの争いが、この日大きな転機を迎えたからである。
そして、この日を堺に、黄金聖闘士たちが十二宮に集い始めた。
フィオナが突然側近の任命を下されてから半日、どんよりとした灰色の雲が、サンクチュアリを覆い始めた夕暮れ時――
厨房の責任者から寮に置いていた荷物を届けられたフィオナは、緊急に仕立てられた側近用の服に身を包んで、しずしずと教皇の前に進み出た。ウム、と、教皇は玉座の上で足組みをして、新しい側近をマスク越しに見下ろした。
「そう堅くなるでない、フィオナよ。突然このようなことを申し渡して動揺する気持ちもわかるが、側近になったからといって特別なことをするわけでもない。私の身の回りの世話と、外部との取り次ぎをすればさえ良いのだ。…本来は教皇の護衛も兼ねているのだが、お前にそれは期待せぬ。ただ、私の側を離れぬように、良いな。」
フィオナは滑らかな灰褐色のスカートに目を落としたまま、かすかに頷いた。
(どうして、このようなことになったのか?) そういう思考が頭の端をよぎる。だが、その理由も同僚の忠告も、教皇を前にしては、真っ向からフィオナの脳を支配するようなことは無い。ただ、教皇の勅命に従うことしか、今のフィオナには選択肢が与えられなかった。むしろ、それ以外のことに気を回してしまえば、底知れない恐怖に襲われることだろう。
フィオナは一旦瞳を閉じて、遠慮がちに教皇の姿を仰いだ。
あの日、――2年前に、ここへ逃れてきた自分を思う。あの村で、凍てついたフィオナの心を抱き起こした、教皇の手の温もりを思う。そして、魔女に対する迫害にあおうとしたフィオナのために、直々に保護の命令を下してくれた、教皇の優しさを思う。
フィオナは、教皇に絶対的な信頼を置いていた。人間は、信用できない…。
その魂は、信頼と慈愛に満ちているフィオナであっても、幼少の頃より強いられ続けてきた魔女への迫害は、その無垢な心に、幾重もの頑丈な壁を築き上げてしまっていた。だから、本来、人々を平等に愛する心を持つフィオナも、その気持ちに反して、人間に深い不信感を抱かざるを得ないのである。
だが、教皇だけは――…。
その大きな手から放たれる不思議な温もりは、人間のものではないとフィオナは思っていた。神の化身と呼ばれるほどの教皇は、そう、人間の枠を超えた、あらゆるものを超越した、…フィオナの心に築かれた、高い壁をも遥かに高く越えることが出来る、崇高な存在なのだ。
だから、フィオナは絶対的な神への信仰心に近い感情を、教皇に抱いていた。おそらく誰もが教皇に対してはそうなのだろうが、全ての信頼を破壊されつくしたフィオナにとって、教皇への思いは他の人間たちとは比べものにならなかった。
――仕えよう。
フィオナはそう心に誓った。教皇に受けた恩は、何一つとして返せていない。教皇にまつわる不吉な噂も、フィオナは最初から信じていなかった。そして、素顔を見たということも… フィオナの中では、教皇に恩を返すためのきっかけに過ぎないとして片付けられた。
「わかったか、フィオナよ。如何なる時も、私の側を離れるでないぞ。――良いな?」
フィオナは床についた手に力を込めると、深々と頭を下げた。
「はい…。何が起ころうとも―― 教皇様のご命令が無い限りは、決してお側を離れません。…この身に変えても、教皇様をお護り致します。」
その夜、今しがた教皇の間から盆を下げ、厨房に帰ろうとした新しい食事係は、暗い廊下の向こうから近づいてくる重い足音に立ち止まった。何やら、数人と争っているような音が響いてくる。門番も、暗がりに目を凝らして手の槍を握りなおした。
やがて、男たちのつぶれるような悲鳴が聞こえた後、壁に灯された火明かりに浮かび上がったのは、金色に輝く男の姿だった。
「アッ?」
思わず門前の3人は足が竦んだ。まるで、猛獣が歩んでくるようなその堂々たる勇姿は、黄金聖闘士、獅子座のアイオリアだったからである。
アイオリアは、3人に目をくれることも無く勢い良く門に近づくと、手をかけて中に入ろうとした。
「アッ! アイオリア様!」
門番は慌ててアイオリアを手で制した。
「なりません、教皇様の許可無く入ることは―― お引き取りを!」
次の瞬間、目の前で宙にはじきとんだ門番の姿に、食事係は思わず叫んだ。
「反乱だ! 獅子座のアイオリア様が、教皇の間に押し入ったぞおーーーーーーっっ!!」
アイオリアはそのまま突進して、立ちはだかる巨大な扉を蹴破った。間の突き当たりに、教皇がこちらを向いて腰掛けている。
獅子は牙をむいてその姿に憤然と歩み寄った。だが、今や教皇だけを見据える獅子の視界の端に、ちらと白い姿が映って、思わずアイオリアは足を止めた。
フィオナだった。教皇へと続く緋の絨毯の上で、両腕を広げて仁王立ちしている。獅子の前では鼻息で飛んでいきそうな小さい兎に等しいが、フィオナは細い足を地にふんばって、必死にアイオリアを見上げている。
「お前は…?」
アイオリアは、目の前の娘が噂に聞くサンクチュアリの 魔女であることを一目で悟った。成程、その眼光はいきり立った獅子の闘志でさえも惑わすほど強力だ。アイオリアは魔力を振りほどいて、その先の教皇に目をやった。
その姿にフィオナは詰め寄った。
「お引き取りくださいませ、教皇様の許可無く入ってはなりません! 教皇様への言伝ては、全てこの私が引き受けることになっております。さあ… どうか、お下がりください!」
だが、獅子は眼前の子兎に目をくれることもなく、目標だけをその瞳に捕らえて大きく一歩を踏み出した。
「アッ! いけません! お引き取りを…!」
「……どけ!!」
アイオリアの手にはじかれて、フィオナの体は激しく床に叩きつけられた。アイオリアは眉をしかめたまま、玉座の教皇に近づいた。
「――どうしたアイオリア。…何故、勅命も果たさず戻ってきた?」
「アテナに拝謁するためです。」
教皇はマスクの下で、すごむ獅子の姿にほくそえんだ。
「馬鹿な… アテナへの取り次ぎは、全てこの教皇が行うことになっている。何を今更…」
「お目通り願えぬならば、あなたを倒してでもアテナ神殿に向かう!」
「教皇様!」
マントを翻して挑みかかろうとしたアイオリアの前に、再びフィオナが立ちはだかった。先程床に叩きつけられた際ほどけたのか、髪を振り乱して、今度は槍を抱えている。
「きょ、教皇様に手をあげるなど、どういうおつもりなのですか! お下がりください、さもないと――」
威嚇する子兎に、獅子は牙を覗かせた。
「――本気か」
「……どうかお引き取りを、アイオリア様…!」
「――俺の邪魔をする者は、例え女であろうと容赦はせんぞ。」
フィオナは、額に汗をにじませながら矛先をアイオリアに向けた。アイオリアは瞳を閉じて拳を挙げた。
「正気かアイオリア。」
いつの間にかフィオナの背後に立つ教皇に、アイオリアは驚いて目を開いた。教皇はフィオナの薄い肩に手を置くと、そっと脇に払いのけた。
「勅命も果たさずおめおめ舞い戻ってきたかと思うと、私を倒してでもアテナに拝謁しようなどとは、正気の沙汰ではないぞ。やはり、お前は逆賊アイオロスの弟。2人揃ってアテナに牙を向けようとは、兄弟の血は争えんということか。」
「黙れ教皇!!」
「逆賊はあなたの方だ! この先にあるアテナ神殿に、アテナは存在しない!あなたはこの13年間、アテナ神殿にアテナが存在するかのように振舞ってきたが、それこそ偽りだ!何故ならば、アテナは、教皇、あなたに殺されかけたのを兄アイオロスに助けられ、兄の手から城戸に託され日本へ逃れていたのだからな!!」
フィオナは2人の端で、何を言っているのだろうとアイオリアを丸い目で見た。
だが、次の瞬間、教皇の低い笑い声がマスクの下から漏れたかと思うと、かすかに覗いた教皇の髪の色が変色し始めた。
「な… 何…?」 アイオリアはその様に目を見張った。 「きょ… 教皇……。」
アイオリアの驚愕した横顔に、フィオナがつられて教皇の姿を見ようとした瞬間だった。轟音と共にアイオリアの体が吹き飛び、数メートル先で激しく床に墜落した。フィオナは悲鳴を上げて、槍と共に床に倒れこんだ。
「ぐっ!」 アイオリアの眼前に教皇の足が迫る。再び教皇の手が光ったかと思うと、勢い良くはじけるような音が響いた。
フィオナは顔を上げた。見ると、教皇とアイオリアの中間で、エネルギーの塊のようなものがくすぶっている。2人が一歩身を引くと、塊は音を立てて消滅した。
「真実が見えた以上容赦はしない。…行くぞ教皇!!」
フィオナが慌てて槍に手を伸ばした瞬間、高い声が教皇の間に響き渡った。
「やめなさいアイオリア! 君は誰に拳を向けているのかわかっているのか!」
3人は扉の方を振り返った。
「おお… お前は!」教皇が声をあげる。
「は…」 フィオナも、その金色に輝く姿に目を見張った。
「お… お前は…」 アイオリアはその姿に向き直った。 「黄金聖闘士、乙女座のシャカ!」
シャカは足音を響かせてアイオリアに歩み寄ってきた。逆賊アイオリアを討つよう教皇が命じると、シャカは閉じられた両眼をもってアイオリアの姿を見据えた。アイオリアも、シャカに身構えて微動だにしない。
次の瞬間、槍を支えに立ち上がりかけたフィオナは突然の衝撃に腰をついた。双方の睨み合いにしびれを切らした教皇が渇を入れるや否や、2人がすさまじい勢いで取っ組み合ったからである。かと思うと、力量を比べるように両拳を掴みあったまま、2人は再び動かなくなった。
「くっ!」 はじけるように両者がとびのく。
「――やはり、互いに技を繰り出すしかなさそうだな…。」
フィオナはようやく立ち上がって、よろけながら3人のほうへ歩み寄った。3人の意識は完全に戦いに向いている。 (教皇様を、お護りしなくては…) フィオナは槍をにぎりしめた。今なら、教皇だけを連れ出せる…。
だが、鼓膜を突くような不気味な静寂に、フィオナは足を止めた。まるで、嵐の前の静けさのような、張り詰めた空気が間に漂っている…―――
――天魔降伏!!
――ライトニング・ボルト!!
「きゃあっ!!」
突如轟いた閃光と爆風に、フィオナの体は勢い良く石壁に激突した。フィオナだけではない。シャカもアイオリアも、互いに繰り出した技の勢いに弾き飛ばされた。着地と同時に、両者とも飛び上がる。そして再び、長い睨み合いにもつれこむかと思われた。だが…
アイオリアだけに精神を研ぎ澄ましていたシャカは、汗が額から伝い落ちると同時に構えを解いた。何故ならば、2人が互いだけに集中している隙をついて、教皇が幻朧魔皇拳を放ったからだ。幻朧魔皇拳によって脳を支配されたアイオリアは、わずかに残された良心にもがきながらも教皇に忠誠を誓わされ、シャカに引きずられるようにして教皇の間を後にした。
その噂は、近いうちに日本から青銅聖闘士が攻めてくるという噂と平行する形で、サンクチュアリを震撼させた。
こうして幸いにも、魔女が教皇の側近になったという事実は、来たるべき闘いの噂の中でもみ消され、再び人々の懸念を生み出すことは無かったのである。
野望の障害をひとつ片付け終えた教皇は、普段の姿からは想像も出来ないような邪悪な波動を放ちながら、床に伏すフィオナの元に歩み寄った。槍は石柱の根方で無残にも折れており、フィオナは壁に叩きつけられた衝撃で意識を失っている。教皇はフィオナの白い顔を覗き込むようにその場に膝をつくと、静かにその小首に手をあてがった。
「ついに、真実を知ってしまったな、フィオナ…。もはや生かしておくわけにはいかん。…いや、このサガの素顔を見た時点で殺しておくべきだったのだ。あいつが何と言おうと…。」
教皇の手が高く舞い上がった。
「死んでもらうぞ、フィオナ!!」
骨の砕け散る音が天井に響き渡った。教皇は手に刺さった石の破片を取り除くと、眉をしかめて、依然として呼吸を続ける娘の顔を見下ろした。教皇の拳は、フィオナの首をそれて床を貫いたのである。
「い… いや…… 待てよ…。殺そうと思えば、いつでも殺せる…。この娘は、私の野望が実を結ぶまで、決して教皇の間から出ることは出来ぬのだからな。フ…。魔女か。いいだろう。この際、地獄の果てまで私の供をしてもらうぞ! その内に秘めた大いなる闇の力も、このサガが乗っ取ってくれるわ! サンクチュアリの 魔女は、教皇の偉業の礎となるのだ!!」
教皇、いや、サガの高笑いがサンクチュアリに木霊した。その足元で、再び暗黒の闇に片足を掴まれたフィオナが身を横たえていた。だがその闇は、決してサガに巣食う邪悪なる陰謀ではない。
そう、その素顔をフィオナが見た時も、そしてこの時も、サガにフィオナを殺させまいと働きかけた、フィオナの中に眠る混沌たる神の力であった―――
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