遥か西方の果てに1

 ヒュプノスはハーデス神殿を後にした。

 エリュシオン。冥界と現世を分けるアケロン河の遥か上流、レーテ河の西方にあると言われる悠久の浄土。死後、神々に選ばれた者だけが暮らすことを許される、永遠の理想郷―――

 ハーデスに呼び出された眠りの神ヒュプノスは、その帰途、普段の彼に似つかわしくなく興奮に目を輝かせていた。舞い踊る花の海を掻き分けて、彼の姿を見つけては陽気に手を振るニンフたちを尻目に、急ぎ足で、と言うよりも浮き足で、自分の神殿へと帰っていく。

 ここエリュシオンに時間の概念は無いが、神殿へ入ったヒュプノスはそう長く経たないうちに再び姿を現すと、突然野を駆ける疾風と化して消え去ってしまった。



 その頃、黒い雷雲に覆われたヒマラヤの魔境、ジャミールで―――

 雨が降る、と言うよりも、館自体が雨雲と化して、共に地上に雨を運んでいるのかもしれない。一切の陽光を絶たれた暗い部屋で、フィオナは辺りを包む黒雲よりも、深い心の闇に身を沈めていた。

 ――魂は共にあろう… 形は変わっても、側にいよう…

 ――さようなら……

 沈むような暗闇に白く浮かび上がるフィオナの手が、茶色いシーツをきつく握り締めた。

 あれ以来―― 数日前、貴鬼とムウがここジャミールを去って以来―― ずっと、フィオナはこうして絶望に身を伏せ続けていた。起き上がることもせず、食事もとらず、時に激しく叩きつける雨音を聞きながら、時に部屋にまで入ってくる黒い霧に身を撫でさせながら、ただひたすらにうっ伏しているのだった。

 ――共に、貴鬼の成長を見守ってください。ずっと、このジャミールにいてください…。

 あの、穏やかで神秘的な憂いを含んだムウのささやきが、幾度とも知れず切り裂かれ続けてきたフィオナの胸に突き刺さる。

 嘘、だったのですか…? その声に、返って来ない問いをかけてみる。愛していると、ムウは言った。私たちの幸せも決して壊してはいけないと、情熱的に彼は語った。だが…。何よりも私は聖闘士だと、ムウはすがりつくフィオナを引き放した。そして、決してフィオナを救うことの無い、途方も無い誓いだけを残して、彼は遥か彼方へと消え去っていった――…。

 (いつからだったろう?)

 半分枕に顔をうずめたまま、フィオナはぼんやりと湿った壁を見る。 いつからだったか? …ムウを愛したのは。

 突如サンクチュアリに戻ると彼が告げた時、フィオナの胸に切なさが激しくその身を揺るがした瞬間からだったか?3人の平和な日常の中で、いつの間にか築き上げられた想いだったか? それとも、貴鬼を共に見守ろうと、彼がフィオナに懇願した時からなのか――

 いや、思うにもっと前、初めて2人で星空を見上げた夜よりも、聖域において、包み込むような小宇宙を全身に感じたあの日よりも、更に前…。そう、2人の運命を大きく変えた全ての始まり―― 白羊宮で出会ったその瞬間から、あらゆる物を超越して、ムウがフィオナの胸に飛び込んできたのだ。

 あの時、貴鬼に一緒に話さないかと誘われた時、フィオナを頑なに拒ませたのは、黄金聖闘士に対する畏怖の念などではなく、年頃の娘が覚える淡い恥じらいに近かった。黄金聖闘士と言葉を交わすことが恐縮だと言うのであれば、教皇などに仕えてはいられない。勿論、そういう思いが無いわけではなかった。だが、今思うに―― ムウに盆を渡した瞬間、乙女が異性を見て胸を打たれる衝撃と同じような感覚が、いや、まさにそのときめきが、明らかにフィオナの胸を射抜いたのである。

 フィオナはそれに気付かなかったに違いない。実際、その時フィオナの心を占めていたのは別の人物だった。だが… 揺るぎなき大いなる運命は、確実に、あの瞬間からムウの姿を捕らえていたのだ。

 ようやくたどり着いた、安住の地――

 それが、フィオナにとってのジャミールだった。そして何より、ムウと言う人だった。

 かつてフィオナは恋をした。救い難き、残酷な運命に翻弄され続けてきたフィオナに与えられたその恋は、絶対的な運命だと思われた。実際、そうだったに違いない。その恋が悲惨な終結を迎えた後でも、おそらく、天がフィオナに授けた究極の伴侶は彼であったろう。

 だが… フィオナの命すらも伴って砕け散ったその恋は、その後、フィオナが歩む人生の中で深く、頑丈な鍵を持って、魂の奥底に封印されたのである。死滅した過去として。永遠にフィオナの記憶から消えることは無くても、もう二度と、その心を打つ思い出としては残らずに。

 幼い頃より、灼熱の地獄と言おうか、暗黒の荒野と言おうか、一切の天の恩恵を剥奪されて生かされ続けてきたフィオナは、あの恋に続いて、幾度となく奈落の底に突き落とされるような運命にあいながらも、ついに、ようやく、このジャミールでの暮らしを掴んだのである。

 流動する運命の安息を願うフィオナに、ムウは両腕を広げて応えた。わずかに十余年―― だが、どのように年月を重ねるよりも波乱にとんだフィオナの人生にとって、ムウと言う人は、過酷な道のりの果てに訪れた安らぎの地だった。そう、フィオナは信じた。心を許した。何物にも永遠は無い。だが、少なくとも、二度と運命が2人を切り裂くようなことはないだろうと――

 (なのに!) フィオナは、シーツに噛み付かんばかりに激しく嗚咽を漏らした。 (あの人は、行ってしまった…!)

 彼が、二度と帰ってこないという確証があるわけではない。だが―― これまで高く築き上げられてきた孤独へ対する深い恐れと、何よりも、彼女を支配し続ける絶大なる運命が―― このジャミールでの暮らしは終結を迎えたと、フィオナに囁きかけるのだった。

 「ムウ様… ムウ様……!」

 抑えようも無い戦慄に身を震わせながら、フィオナはただ、毛布の中でむせび泣いた。

 (あの方まで失ってしまったら、私は一体どうなってしまうのだろう?) 例え、遥かなるヒマラヤの山脈にその身を投げても、決して死ぬことが出来ないことをフィオナは知っていた。今までも…。何故死ねないのか、フィオナは真っ向から考えあぐねいたことは無い。ただ、呪われた身の上の宿命だろうと、絶望に浸るための糧にしていた程度だ。

 悪運が強いのか、それとも吸血鬼がそうであるように、魔女もまた、不死の肉体を持つのか…。フィオナは、どちらかと言うと後者の方を選んでいた。なぜならば、この憎むべき肉体は不死に近い。幾度となく死地より甦ったというだけではなく、現に今、こうして数日間水すらも口にしない身であるのに、その体は衰えることを知らず、依然として誰もいない館に妖艶な香りを放ち続けているのだ。

 (発狂してしまおうか?) フィオナは枕に顔をうずめたまま、ぱちくりと瞳を開いた。よくもここまで、発狂せずに来れたものだと思う。その身体は何らかの力に支配されているものであっても、フィオナ自身の精神は、通常の娘と変わらないのだ。無論、正常な乙女の心は、とうの昔に破壊されつくしてしまっているが。

 (けれど…) フィオナはそっと目を閉じた。こぼれ出た涙が、瞼の下で熱く枕に染み込んでいった。

 (私は、幾度か救われた。生きる希望を与えられた。…だから、生きてこられたんだ…。)

 不意に、今までフィオナを支配していた絶望が、それらの人々への感謝の気持ちに変わって、沈んだ心に暖かい息吹を吹き込んだ。

 その優しさを想う。真っ黒な墨に数滴落とした白い絵の具のような、ちっぽけで、頼り無くて、だけど、決して黒に染まってしまうことの無い、奇跡的な温もりを想う。

 そう、まさに奇跡だった。フィオナにとっては。魔女にとっては。だが、そのいくつかの奇跡も、どこまでも悪戯な神々の気まぐれに翻弄され、かすかな痕跡だけを残して墨の中へとその身を消していったのである。

 奇跡…。その奇跡を起こすとされる聖闘士であるムウでさえ、今、神々の秤にかけられようとしていた―――



 ここは… どこ…?

 フィオナは、星明りの無い宇宙のような感覚の中で目を開いた。どうやら、あのまま眠ってしまったらしい。フィオナの精神は今、無限に広がる混沌たる闇の中に浮かんでいるのだった。

 ここは… 前に、来たことが…?

 思考もままならない意識が、かすかな記憶を呼び覚ました。闇はどこまでも深く、しかし、恐怖を与えることなくフィオナをゆっくりと底へといざなって行く。

 (ずっと…昔…… 私はここに… 来た…ような……) そう思ったきり、フィオナは再び目を閉じた。ゆりかごに揺られているように、心地よい闇の波動だけがフィオナの知覚に入ってくる。

 ふと、フィオナは笑みを浮かべた。その笑みは、誰か大きな腕の中で眠りにつく、子供のもののようだった。

 父…さん―――

 薄く開いた真紅の瞳が、ぼんやりと浮かび上がる。

 父…さん……?

 (違う!!) びくんとフィオナは身を震わせた。

 今、この大いなる闇の中で、フィオナは確固たる記憶を呼び起こしたのだ。この偉大なる存在は… 父などではない。そして、安らぎに満ちた温もりなどではない。

 そう… それは恐るべき… この16年の歳月の間、常にフィオナを掴んで放さなかった、大いなる運命の正体――――!!!

 「うっっ!?」

 フィオナは飛び起きた。絶えず降りこんで来る雨で湿気た毛布が、重い音を立てて床へと落ちた。いや、床の中に沈んでいった…。

 恐怖に駆られたフィオナの悲鳴が、館を飛び出してジャミール中に響き渡った。


 待ち侘びたぞ・・・!!!


 部屋の床全体が巨大なホールと化して、フィオナをシーツごと引きずり込んでいく。地の底まで続くようなその巨大な穴からは、蛇のような黒い瘴気が湧き上がり、たちまち館を覆い尽くした。壁に立て掛けていた箒も、小物をしまう物入れも、次第に激しくなる傾斜に傾き呑み込まれていく。最後には館自体が沈没してしまうのではないかと思うほど、口を開けた魔物は容赦なく全ての物を呑み込み始めた。

 フィオナの身にも無数の蛇がまとわりついて、ずるずると地底へと沈めていく。だが、恐怖の色を浮かべながらも、フィオナは抗うことなく深い穴の底を凝視した。鼻がもげるような瘴気の渦と共に、不気味な波動が奥底から吹き上げてくるのだ。その波動は、決してフィオナに戦慄を与えることなく、むしろ、絶対的な安らぎをすら語りかけて、フィオナを包み込んでくる。

 もはや胸まで瘴気につかりながら、フィオナは必死に低い波動に耳をそばだてた。さっき鮮明に甦った、過去の記憶を脳裏に浮かべながら。その波動が、そして、かすかに目を覚ましかけている、魂の奥に眠るもう一つの意識が、何であるのかを突き止めるために。

 瞬間、穴底から黒い閃光がほとばしってフィオナの体を貫いた。フィオナは、激しい地の揺れを覚えながら絶叫した。指先までも捻じ曲げてしまうような鋭い痛みが、その時、ふんわりとした何かの力によって和らいでいくのを、フィオナは薄れゆく意識の中で感じ取った。

 やがて全身の力が抜けると、フィオナは瘴気の成すまま深い地の底へと呑み込まれていった。――いや、そう思われた瞬間、黒い靄の中から再びフィオナが身を起こした。今度こそは、血相を変えて穴から這い出ようともがきながら。だが、それも無駄な抵抗―― 漆黒の蛇たちは次々とフィオナの腰に食いつき、強靭な顎を持って穴底へと引きずり込んでいく。フィオナは爪が剥けんばかりに瘴気の渦を掻き毟った。とぐろを巻いて締め付ける蛇たちを、決死の思いで蹴った。

 「い……や…だ!」

 窓の外の雲が途切れて、ヒマラヤの空がかすかにのぞいた。

 「嫌…!! やっと…… やっとたどり着いたんだもの…! 共にあろうと、誓いを立てたんだもの!!ここまで来て、また奪い去られるのは絶対に嫌!! 呑まれたくない…! 運命なんかに、もう振り回されたくないっっ!!私はここにいたいの! 私は、あの人といたいの!! …ムウ様……。ムウ様ああぁぁぁぁ――――――――っっっっっ!!!!」

 瞬間、神聖な輝きに満ちた稲妻が胸を撃ったのをフィオナは知った。するとフィオナはぱったりと抵抗をやめて、そっと目を閉じると、そのまま地の底まで沈みこんでいった。


 さあ…再びわが胸に帰ってくるのだ…… わが最愛の妻、ペルセフォーネよ…!


 後には、何事も無かったように、静かなジャミールがあるだけだった。フィオナと共に沈んだと思われた家具たちも、誰かが元に戻したかのように、整然と部屋に横たわっている。

 その中で箒だけが、窓から舞い込んでくる雨雲の霧にもてあそばれているのか、ころころ、ころころと、床を転がりまわっていた。

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