遥か西方の果てに2
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何て、美しい女性なんだろう…。
フィオナは深い夢の奥で、光り輝く女性と出会った。辺りは霞がかっていて、その女性の顔もぼんやりとして見えない。しかし、この世のものではないその女性の輝きに、フィオナは心を打たれるのだった。
女性は豊かなハチミツ色の髪をしていて、肖像画のモデルのように、ゆったりと腰掛けてフィオナを見ている。無言ではあるが、そっと膝に身を横たえたくなるような、母性的な温もりが伝わってくる。フィオナは母を知らなかった。むしろ、フィオナ自身が母性愛に満ちた娘なのだ。だがこの時ばかりは、母親とはこのようなものなのだろうかと、見ぬ母を慕う気持ちにフィオナは目頭を熱くした。
――何故だろう…
フィオナは、その女性が母親と言うよりも、自分自身であるような気がし始めた。まるで、目の前の人が鏡に映した自分の姿であるような、奇妙な感覚に襲われるのだ。外見からしてそんなはずはないと頭ではわかっていても、見れば見るほど、自分自身を見ているような気がしてフィオナは眉をひそめた。
――あなたは、だれ?
フィオナが問いかけると、四方八方から声が跳ね返ってきて空間に木霊した。女性はきらきらと虹色のオーラを放ちながら、依然としてフィオナを見つめるばかりだ。フィオナは急に怖くなって、女性の顔を確かめようと数歩歩み寄った。
瞬間、女性はすっくと立ち上がった。そして、何かを話し始めた。フィオナはそれを聞き取れずに、更に前へ進み出た。その分だけ、女性の姿は遠ざかった。切に訴えるように、そして、どこか悲しげに、女性は何かを語っている。
すると、突然女性の姿が豆粒状になり、霧に吸い込まれたかと思うと、目を覆うほどの眩しい光がフィオナを襲った。光と共に激しい嵐が巻き起こり、フィオナの肉体は天高く舞い上げられていく。その気流の中で、フィオナは女性の声を聞いたような気がした。何か慰めているような、そういう感じの内容だった。
しかし、やがて体が雲の上へ運ばれた頃には全て忘れ去り、フィオナの意識は、ゆっくりとあるべき場所へと帰っていった…。
誰もが夢見る、理想的な目覚め―――
それが、フィオナが受けた第一印象だった。明るい陽光に満ちた部屋の中で、さわやかな風に頬を撫でられながら迎える朝――
ゆったりとした幅の広いベッドの上で、うつろな目をフィオナは眠たげにこすった。ふわりと、高い天井から吊り下げられたレースのカーテンが優しく揺れる。そっと足を動かすと、つややかな生地のシーツが音を立てた。
(はて、ここはどこだったかしら…?)
半分夢の中に意識を残したまま、ぼんやりと考えてみる。今横たわっているベッドといい、周りを仕切っている刺繍の施された幕といい、並大抵の代物ではない。それに、カーテン越しにうっすらと見える部屋の広さも尋常でないのだ。そう… まるで、豪華な宮殿のような華美を漂わせている。
もちろん、フィオナはそういう場所へ行ったことなど無い。また、自分が置かれている状況に思考を廻らすほど、目も冴えていない。だが―― 何故か、フィオナはこの景色を知っているような気がした。まるで、今日まで毎日ここで寝起きしていたような、そんな日常性まで感じさせるのだ。
フィオナはもう一度寝ようか起きて事態を確かめようか、夢うつつに迷いながら、巨大な枕の上で寝返りをうった。その時ふと、フィオナは半透明のカーテンの向こうに人影を見た。ベッドから少し離れた所に、その人影はぼんやりと佇んでいる。
「…だれ?」
眠りを妨げられた不機嫌さを含んだ口調でフィオナは問いかけた。カーテンの上で波のように揺れるその人影は、足音もたてずベッドに近づくとその場に跪いた。
「――お目覚めになりましたか…、女王陛下。」
フィオナは身を起こした。そして初めて、今、自分が知らない場所にいることに気がついた。薄い紅色で彩られたベッドの上に、フィオナは何も纏わない姿で横たわっていたのだ。フィオナは慌ててブランケットをたくし上げた。
「だ、誰? …そこにいるのは…。」
「ヒュプノスでございます、女王陛下…。」
瞬間、鮮明な光と共に、フィオナの中で真実が目を覚ました。そして、フィオナはこの場所がどこであるかを知った。自分が、何者であるのかを。自分が―― この地ではフィオナであってはならないことも含めて… 真実を。
「ええ。…ヒュプノスにございます、女王陛下…。」
「ヒュプノス…。ああ…、…この冥界を治める、三大神の一人、ヒュプノス…。そして…… ここは―― 今、私がいるこの場所は…。し、神話の時代、冥府の王ハーデスとその后ペルセフォーネが暮らした、エリュシオンのハーデス神殿…!!」
真実がフィオナの中でどうどうと沸き出でて、行き着く先もなく渓流を巻き起こしている。一言一言を口にする度に、がんがんと衝撃が頭を打って、フィオナは激しいめまいに襲われた。
「そして…。そして私は……。…私は、冥界の女王、ペルセフォーネ…。」
その時、フィオナの頬をひんやりとした風が撫でた。額に星形の紋様を浮かべ、金色の髪と瞳をしたヒュプノスが、カーテンを開いて佇んでいる。
フィオナは突如覚醒した真実に体裁を忘れていたが、すぐに裸であることを思い出してヒュプノスに背を向けた。その細腕を、突然ヒュプノスの手が掴んだ。フィオナは驚いて振り返った。その隙をついて、ヒュプノスはベッドの端にフィオナを引き寄せた。
「な、何を…!」
右手でブランケットを支えながら、フィオナは頬を染めてその手に抗った。だがヒュプノスは放さない。ベッド脇にそっと膝をつくと、かすかに震えながらフィオナの白い手を口元にあてがった。
「………。――お懐かしゅうございます、…ペルセフォーネ様…。」
そう言ったヒュプノスの頬を一筋の涙が伝ったのを見て、フィオナは目を丸くした。自分が何者であるのかを悟ったとは言え、神に泣かれて恐れ多い気がしたのだ。ヒュプノスは感涙に浸りながら続けた。
「神話の時代以来…。まさか… こうして再び、貴女にお会いできるとは思いもしませんでした…。あの時代、アテナの聖闘士によって貴女を絶たれたハーデス様は、深い悲しみに陥り、未来永劫、貴女を娶ることはしないと心に誓われたのです。しかし、前聖戦において、ついにハーデス様は決意なされた。次の時代には、貴女を甦らせようと。そして必ず、勝利を収めようと。」
フィオナは、語り続けるヒュプノスの顔を見つめた。魂の中で目覚めた真実と、目の前に突きつけられた現実に、こらえようの無い衝動を胸に覚えた。嘘だと、払いのける気は起こらない。だが―― 受け止めるには、あまりにも過酷すぎる。
その混乱のためか、フィオナは、一瞬肩にかかったヒュプノスの手に気がつかなかった。制止する間もなく、次の瞬間にはヒュプノスが眼前に迫っていた。
「アッ、何を…! 何をするのっ!?」
中腰になったヒュプノスは、片足をベッドに掛けて情熱的にフィオナを抱き寄せようとした。フィオナは片方の手で必死にそれを制した。だが、もはやヒュプノスの息が額にかかるくらいに引き寄せられている。
「…お忘れではあるまい。――神話の時代、私達は…! 例え、ハーデス様に永遠の責め苦を与えられようとも、私は、命をかけて貴女を愛していたのだ…!」
滑るような素肌に手を回すと、ヒュプノスはフィオナの体を抱え込んだ。視界いっぱいに広がるその顔にフィオナはおののいた。必死に、彼を止める言葉を考えながら。魂の記憶をたどって、ペルセフォーネの言葉を探しながら。そうする間にも、ずるずるとフィオナの体はヒュプノスに覆われていく。真っ赤に頬をそめながら、フィオナは叫んだ。
「や、やめなさいヒュプノス! ハ、ハーデスが… ハーデスが来ますよ!」
情熱に目を潤ませながら、ヒュプノスは一笑した。
「ハーデス様は今、ジュデッカ神殿へ行かれている。――それに当分、貴女にお会いになることは無い!アテナが滅び、地上をその手にするまでは! 全てを成し終えた後、ハーデス様は貴女を妻に迎えるおつもりなのだ。」
フィオナは抵抗をやめた。ただ、ヒュプノスの顔を凝視するだけである。ヒュプノスはそれを勘違いしたのか、力任せにしていたのをやめて、今度は優しくフィオナの髪に手をやった。
「……お美しい…。以前の魂は私の力で眠りにつき、ペルセフォーネ様として覚醒なさった今となっては…。ハーデス様が直々に、お与えなされた肉体だけのことはある…。かつての貴女に勝るとも劣らず、いや、おそらくはそれ以上の―― 究極の美を、貴女は持ってらっしゃるのだ…。」
そっと、ヒュプノスはフィオナの薄い唇を覆おうとした。その頬を、激しくフィオナの手がぶった。
「離れなさい。」
意外な展開に唖然とするヒュプノスを、フィオナは全力を持って突き放した。ヒュプノスはよろけて床に転げ落ちると、動揺に身を震わせながらゆっくりと起き上がった。
ベッドの上には、先程と打って変わって、威厳に満ちたフィオナが自分を見下ろしている。その頬はすっかり赤みを失い、白い小顔に爛々と赤い瞳が輝いていた。
ヒュプノスは拒絶への悲しみと、羞恥の念に駆られて目を伏せた。
暫くの間、沈黙が流れた。
「……貴女は」 不意にヒュプノスが口を開く。
「貴女は… 貴女はもう、このヒュプノスを必要としてらっしゃらないのか…。かつて、地上より連れ去られ、恐怖に脅えていた貴女を介抱したのが私だったのだ。貴女も… 女王の座についた後でも、貴女は私を求めておいでだった!」
「黙りなさい。」 フィオナは目を細めて一喝した。
「…黙りなさい、ヒュプノス。今は神話の時代とは違うのです。ハーデスに忠誠を誓う身でありながら、彼の最愛の者に先に手を触れようとは、何と謀反なる行い…。ハーデスは、花嫁が無垢かどうかわからぬほど愚かではありませんよ。――命が惜しければ、今すぐこの場から去るのです! 下がりなさい、ヒュプノス!」
床に目を伏せたまま、ヒュプノスは唇を噛み締めた。話そうとすると、唇と共にその声も震えた。
「わ… 私は、ペルセフォーネ様…。貴女を幾星霜もの間、身を切る思いで待ち焦がれていたのはハーデス様だけではない、私も同じだったのです…!それを… それを、時の流れを理由に無に帰そうなど、あまりにもむごいのではありませんか…?」
「神殿へ戻りなさい、ヒュプノス。…そう何度も忠告しませんよ。私の言うことがきけないと言うのですか。」
ヒュプノスは目頭を熱くしながらフィオナを見上げた。フィオナはその顔を直視できず、目を閉じて顔をそむけた。やがて布の擂り合う音がして、遠くの扉からヒュプノスが出て行く気配を感じるまで、フィオナはそうして座っていた。
風に揺れるカーテンが、真珠を散りばめたように光り輝くフィオナの肌を幾度も撫でた。フィオナは焦点の定まらない目をして宙を眺めたまま、ヒュプノスに浴びせた言葉の数々を思い起こしていた。 (ハーデスは、花嫁が無垢かどうかわからぬほど愚かではない――) 何故、そのような言葉が口をついたのか、フィオナは自分自身に驚いていた。そしてまた、ヒュプノスに向き合うたびに一つ一つ脳裏に浮かんだ、古の時代の光景に思いをめぐらせた。
私は、冥界の女王ペルセフォーネ…
否定しようの無い真実に、フィオナは両手で顔を覆った。 (嘘だ!) 初めて、そんな思いが胸をよぎる。 (これは夢だ!) 何度心の中でそう叫んでも、既に自分自身が受け入れ始めていることをフィオナは否めなかった。
「ムウ様…。」
この時ほど、ムウを愛しく思ったことは無い。逢いたい。彼の手で、この運命の波から救い出してほしい。冥界を抜け、地上すらも飛び越えて、どこか人の手の及ばぬところでそっと抱きしめてほしい。だが―― それが叶わぬことだと、フィオナは知っていた。むしろ、フィオナ自ら闘わなくては―――
はっ、と、フィオナは顔を上げた。 (そうだ…) ヒュプノスの言っていたことを思い出す。 ”全てを成し終えるまでは…” だとすると、今サンクチュアリでは何かが起こっているのだろうか?
フィオナは立ち上がった。
「誰か! 誰かおりませんか! ――私の服を、今すぐ持ってきてください…!」
果てしなく広がる野に遊んでいたニンフたちは、向こうから近づいてくる人影に思わず声を挙げた。
「まあ!」 「あのお方が…!」 「なんてお美しいの!」
花園に舞い降りた優雅な蝶のように、純白の衣装を纏ったフィオナがしずしずと歩いてくる。絹のような栗色の髪が柔らかく風に浮かんで、その姿はまさに、幻想の野に舞う天女の姿そのものだった。
ニンフたちは摘んだ花が手から落ちたのにも気付かずに、その神々しい姿に目を輝かせて魅入った。
「…お后さま!」
愛くるしいニンフたちが、歓声とともにフィオナに駆け寄る。だが、フィオナは笑い返す余裕もなく足を先に進めた。
「あら、どちらへ?」
「…タナトス神殿は、こちらの方角で良いのでしょう?」
「まあ、タナトス様へご挨拶に? 私達も参りますわ。きっと、タナトス様もお喜びになるでしょう!」
どこまでも陽気なニンフたちに囲まれて、フィオナは黙々と足を進めた。遥か花の海の彼方に、巨大なタナトス神殿が聳えている。
神殿の中は、愉快な音楽と香しい果物に溢れていた。ニンフたちは思いのままに舞い踊り、床一面には色鮮やかな花びらが散りばめられている。音楽と笑い声の合間を縫って、数人のニンフが慌しげに飛び込んできた。
「タ、タナトス様ぁ!!」
熟れた梨を頬張っていた死を司る神タナトスは、ニンフたちの姿に苦笑を浮かべた。
「…どうした…。まさかまた、キューピットが悪戯をしたとか言うのではないだろうな。今日だけでも、既に十数回聞かされているのだからな…。」
「それが… せっかく私たちがこしらえた花輪を…。」
「タナトス様っ!!」
その後ろからまたニンフたちが駆け込んできて、タナトスは尚のこと眉をしかめた。
「困った奴らだ。今度罰を与えておくから、もう今日はキューピットの話はやめろ…。」
「えっ? い、いえ、違います、タナトス様…。お后さまがご挨拶に…。」
次の瞬間、一瞬にして神殿が静まり返った。琴を奏でていたニンフは指を止め、盛った梨を掲げていたニンフは、驚きのあまり一切れ床に落としてしまった。
全ての者の意識を奪ってしまうほど、崇高な輝きに満ちたフィオナが現れたからである。
「おお…。」 タナトスは、驚きの色を浮かべて玉座から立ち上がった。 「――女王陛下…。」
瞬間、先程までのにぎやかさに勝る歓声が、タナトス神殿を揺るがした。神話の時代以来の女王に、ニンフたちは喜びの舞を舞い、ある者は花びらを飛ばし、ある者はうやうやしくフィオナを崇めた。タナトスも笑みを浮かべてその様を眺めている。
「まさか、貴女様自らおいでいただくとは…。私のほうから拝謁致しましたのに。いや… しかし、よくおいでくださいました。お前たち、女王陛下に何かお出ししないか。」
「良いのです、タナトス。」 フィオナは乱舞するニンフたちを手で制した。
「それよりも…。あなたに、尋ねたいことがあってこの場へ赴いたのです。」
タナトスは、ニンフたちを促してその場に跪いた。 「尋ねられたいこと… と申しますと?」
自分を取り囲んで跪く者たちを、フィオナは見回した。伝説に聞く妖精たち…。そして、死の神タナトスまでが自分を女王と拝めている現実に、フィオナは目のくらむ思いがした。だが、今はそれよりも、別の思いに駆られている―――
「……。…私が… ハーデスが私を甦らせたと言うことは、再び、アテナとの闘いに挑んでいるのではありませんか…?」
ヒュプノスとは対照的に、銀色の髪と瞳を持つタナトスは上目遣いでフィオナを見た。頷いて見せると、フィオナの眉が一瞬曇ったことをタナトスは見逃さなかった。フィオナは、懸命に表情を変えないように努めながら続けた。
「では… では、ハーデスは冥闘士を、もう地上へ派遣したのですか…?」
タナトスはもう一度フィオナを見た。フィオナは冷静を装いながら、必死に動揺を抑えている。瞳を閉じると、タナトスは立ち上がって玉座の方へ歩み寄った。
「案ずる事はありません、女王陛下。ハーデス様は、冥闘士をアテナの聖闘士に差し向けることなどなされていない…。聖闘士もまた、サンクチュアリを動いていない。そして、決してそこから出ることも無い――…。無論、このエリュシオンへ来るなど万に一つでもあり得ないのだ。われわれは、女王陛下、わがハーデス軍はこの聖戦において、誰一人として失うことなく、完全な勝利を収めるのです。」
かすかに、フィオナの顔色が失せる。
「それは、どのようにして…?」
「聖闘士の亡者です。」
マントを翻してタナトスは向き直った。その笑みに、フィオナは思わず視線をそらした。
「貴女はご存じないかもしれないが、この聖戦が始まる前に、聖闘士どもは内戦を起こしたのです。愚かなるアテナの聖闘士は、その闘いで半数近くが死に絶えた。そこで、ハーデス様は彼らに新たな命を与え、十二宮にいる残りの黄金聖闘士と、アテナの抹殺に向かわせたのだ!」
フィオナは思わずたじろいだ。赤い瞳を、わなわなと震わせながら。タナトスは細目でその様を見つめた。
「どうなさったのです、女王陛下…? 体のお具合でも悪いのですか…?」
「あ、いえ…。」 フィオナは慌てて取り繕った。 「少し不安に思っただけです。なぜなら――」
「…聖闘士のアテナに対する忠誠心は、わが冥闘士に勝るとも劣らず揺るぎないもの…。私は神話の時代に、そしてあなた方は、幾度もの闘いの中でそれを見てきたはずでしょう…?その彼らが、アテナの宿敵であるハーデスに易々と寝返るとは、どうしても思えないのです…。何か、彼らはハーデスの誘いに乗った振りをして仕掛けるつもりなのでは…。」
タナトスは、蒼白なフィオナの顔を見つめた。フィオナは目を閉じて、彼の視線を避けているように見える。タナトスはあえてその顔から目をそらして、その動揺に無関心を装った。
「貴女の危惧はわかります。ですが、心配はいりません。聖闘士も所詮は人間。生と言うものには、どんな信念も折れてしまうものなのです…。永遠の生命… 彼らは、目の前の餌に食いつこうとする犬に等しいのですから。」
フィオナは、そう語るタナトスの背を睨んだ。だが瞬時にそれを打ち消して、薄く微笑むと踵を返した。
「ありがとう、タナトス…。実に久しくエリュシオンで目覚めて、ヒュプノスにハーデスが地上を攻めている旨を聞き、彼の身が心配になってあなたを訪ねたのです。そうですか…。死してもかつてはアテナの聖闘士。力も同等な彼らがぶつかり合えば、消滅は避けられないでしょうね。――安心しました。これで、落ち着いて時を待つことが出来ます…。」
去りかけるフィオナに、何か食べていかないかとタナトスは呼びかけた。だが、フィオナは頭を振るばかりで颯爽と神殿を後にしていく。ついて行こうとするニンフたちを制して、タナトスは神殿の入り口までフィオナを追いかけた。
「女王陛下! 一つお伺いしたいことが…。“フィオナ”は消滅しましたかな?」
「何ですって!?」 タナトスの言葉に、フィオナは完全に顔色を失った。 「な、何のことです…?」
「…ご存じないか…? 貴女が覚醒する以前は、フィオナという娘がその肉体に宿っていたのです。彼女はヒュプノスによって永遠の眠りについたはずだが…。もしや、フィオナが残っていたりはしないでしょうな。」
フィオナは、辛うじて苦笑に近い笑みを浮かべた。静かに首を横に振ると、足が震えるのを隠しながらハーデス神殿へと歩み去っていった。
タナトスは、その姿をかすかな疑念を持って見送った。
「……。…フ、あのお方は、まだ恐れておられるのか…? 冥界の食べ物を、口にすることを……。」
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