十二宮編1
聖域、サンクチュアリ。
この日サンクチュアリは物々しい雰囲気に包まれていた。おこがましくもアテナの名を語る日本の少女と、サンクチュアリを裏切り、教皇に反旗を翻した青銅聖闘士たちがサンクチュアリに攻めてくる――
教皇は十二宮を司る黄金聖闘士たちを招集した。双子座、天秤座、射手座以外の黄金聖闘士たちが集結し、黄金聖闘士たちは青銅聖闘士たちの奇襲に備えて、それぞれの宮に待機していた。
第一の宮、白羊宮。巨大な石の柱が立ち並ぶ宮の入り口の階段に、赤毛の少年がちょこんと腰掛けている。大きなつり目で、眉は剃り、眉間のところに二つ点を描いた10歳ぐらいの少年だ。頬杖をつきながら、ぎょろぎょろといたずらっぽそうな瞳で辺りを見渡している。
不意に、後ろでマントが風にはためく音がして、少年は振り返った。暗い宮の奥からコツコツと足音をたてて、一人の背の高い青年が歩いてくる。豊かな黒い髪を背中で束ね、少年と同じ眉をした若者だ。大きくするどい目つきをしてはいるが、どこか憂いを含んだその瞳は神秘的な雰囲気を漂わせている。青年が宮の入口に近づけば近づくほど、太陽の光が反射してチカチカと少年の目を射た。
黄金の鎧を身に纏っている。首周りに大きな羊の角をかたどった、牡羊座の黄金聖衣だ。白いマントを翻しながら歩く姿は、若干20歳前後の若者とは思えない堂々とした威厳を放っている。青年は少年の後ろに立つと、静かに眼下の景色に目を落とし、ゆっくりとした口調でつぶやいた。
「もうすぐ星矢たちがここサンクチュアリに現れる。貴鬼、お前もこの白羊宮で彼らを迎えるのです。おそらく彼らの聖衣は痛んでいる・・・。修復しなければなるまい。」
貴鬼と呼ばれた少年は、コックリと頷いた。その瞳にはどこかしら、緊張がみなぎっている。あと数時間のうちに闘いが始まるのだ。貴鬼は座りなおし、再びサンクチュアリを見下ろした。いつ星矢たちは来るのだろう?果たして無事に教皇を倒す事ができるのだろうか?
「ねえ、ムウ様・・・。」
ついに、貴鬼は我慢できずに師の顔を見上げた。とても黙って座っていられないという表情だ。
「星矢たちは本当に教皇を倒せるの? だって、星矢たちは青銅聖闘士なのに、8人の黄金聖闘士と戦わなくちゃいけないんでしょう?無事に教皇の間までたどりつけるの?」
ムウはそっと貴鬼の顔から目をそらすと、静かに貴鬼の隣に座り込んだ。
「それは、彼らの小宇宙しだい・・・。今のままでは、星矢たちはたちどころに倒されてしまう。第7感、セブンセンシズに目覚めない限りは・・・。」
師の答えがあまりにも不安を煽るようなものだったので、貴鬼はムウの顔を覗き込んで半ば願うように言った。
「星矢たちはセブンセンジズにきっと目覚めるしょう、ムウ様? 星矢たちは白銀聖闘士たちを倒したもの。だから、きっと今回も大丈夫だよね?」
先程の問いかけとは全く正反対のことを言っている事にも気付かずに、貴鬼は必死でムウの横顔を見つめた。だがムウは目をとじたまま一言も発する事は無かった。
「!?」
突然ムウは立ち上がった。隣でそわそわと足を揺すっていた貴鬼も、慌ててムウの視線の先を探った。ムウは、白羊宮の屋根と空の境目を睨んでいる。何か、得体の知れないものが近づいてきているといった感じだ。
貴鬼は、石段を数段降りて空を仰ぎ見た。その途端、真っ赤な花が突然目の前で咲き開いたように、貴鬼の目はいっぱいになった。
少女だ。それも箒に乗って空を飛んでいる。白羊宮の上空を越えると、ゆっくりと弧を描きながらムウたちの方へ下降し始めた。
「魔女」
驚愕してムウがつぶやいた。
まるで少女しか見えるものが無いかのように、視界の全てが支配されている。少女は蝶のように、ふわりと石段の下へ着地した。
箒に配膳用のカートがくくりつけてある。少女は箒に結び付けられた紐をほどくと、かがみ込んでカートの中から食事の乗った盆を取り出した。そして盆に目を落としたままゆっくりと石段を登ってくる・・・。
貴鬼は天女が舞い降りてきたのではないかと疑った。美しいとか、綺麗だとか言う言葉では到底表現できない。思考が止まり、体が宙に浮いているような感覚の中で、少女だけが世界の全てだった。視覚だけではない、精神そのものを魅了する美しさが少女にはある。
淡い黄色のワンピースからのぞく肌は雪よりも白く澄んでいて、豊かな栗色の髪を左肩に寄せ、ふわりと編んで胸に垂らしている。小さい顔に大きく開いた瞳は、毒々しいとすら言っても良い、深い紅色をしている。先程、貴鬼の目に真紅の花のように映ったのは、この瞳のせいに違いない。
花の強い香りのような、南国の熱い情熱のような、その赤い瞳から爛々と放たれる鈍い光に貴鬼は酔った。
「お食事を」
いつの間にか貴鬼の隣を通り過ぎて、少女はムウの前に盆を掲げて跪いた。
「教皇の間よりお持ち致しました。宮を動けぬ皆様のためにと、教皇様のお心遣いにございます。」
ムウはしばらく身じろぎせずに少女の面を見下ろしていたが、やがて気付いたように盆を受け取った。
「どうぞごゆっくり」
少女は膝を曲げて礼をすると、口をあんぐり開けたまま魅入っている貴鬼にニコと笑いかけた。一瞬にして周りの酸素がなくなったかのような息苦しさの中で、いつまでもその笑顔が貴鬼の目に焼き付いている・・・。その数段上で、ムウもまた盆を手に持ったまま少女の後ろ姿を見送っていた。
少女はカートのところへ戻ると蓋を閉め、それから箒を抱えて近くの岩の影に座り込んだ。
花の香りがなくなると急に貴鬼は我に帰り、ムウを仰ぎ見ては少女の方へ目を向け、そしてまたムウの顔を見上げた。貴鬼に視線を向けられると、ムウは少女から目をそらして石段に腰掛けた。貴鬼はその顔を訴えるように見つめていたが、ムウは食事にとりかかったため、踵を返して石段の一番下まで駆け下りた。
「おねえちゃあん。」
声が裏返りそうになるのをおさえながら、貴鬼は少女の白い顔が岩から覗くのを待った。
「どうしてそんな所に座ってるのー?」
少女は、はじめ顔だけ岩から覗かせたが、やがて上半身を乗り出して小さい声でささやいた。
「・・・あのお方が食事を終えられたら、盆を回収しなくてはならないの。それまで、ここで待っているの。でも気にせずごゆっくり召し上がるようにお伝えして。」
貴鬼は生返事をして石段を数歩上がったが、何か決意をしたらしく、くるりと振り返って叫んだ。
「それじゃ、ムウ様がご飯を食べ終わるまで、こっちに来て一緒に話さないかい?」
少女は驚いて岩に身をかくしたが、頬を染めながら再び貴鬼の方へ顔を向けた。一瞬わからなかったが、小さく顔を横に振っている。
「ダメ? どうして。」
愕然として貴鬼はムウの方を向こうとしたが、少女がまた小声で話し出したので向き直った。
「そんなこと・・・許されないわ・・・。私みたいな侍女が、黄金聖闘士様と言葉を交わすなんて・・・。」
「どうしてさ!? そんなことないよ!!」 貴鬼は階段を降りきって少女へ2・3歩近づいた。また、あののぼせるような香りにあたって、貴鬼はますます頭に血が上った。
「そんなこと誰が言ったんだよ! ムウ様もおいらもそんなこと気にしないって! さあ、おいでよ・・・!」
ぱっと、赤い花びらが散った。貴鬼が無理矢理に少女を引っ張ろうとしたので、その手を振り切って少女が飛びのいたのだ。貴鬼はなぜ自分がここまでするのかわからなかった。じり、じり、と子兎を捕らえようとするように、貴鬼は少女に詰め寄っていた。そう、一歩足を進めれば一歩後ろに下がってしまう、赤く美しい宝石を手に入れようとするかのように。
ふと、貴鬼は視界が晴れたように少女の顔をとらえた。
脅えている。箒をしっかり胸に抱え込んで、震える瞳で貴鬼を見下ろしている。
貴鬼は初めて、目の前の少女が人間に見えた。背は高い方ではなく、繊細な体作りをしている、15・6歳の一人の娘に。
自分が何をしていたのかに気付くと、貴鬼は心臓に水を浴びせられたように胸が重くなった。
「・・・ごめんよ。おいら・・・おいら・・・。ただ、おねえちゃんと話をしてみたいって思っただけなんだ。」
少女は箒を握り締めていた手を緩めて、肩を落として謝る貴鬼を見つめた。その眼差しに、貴鬼は怪しく輝く光でもない、むせ返るような強い香りでもない、母性的な優しさを見た。そして、叱られた後の子供のような目をして、貴鬼はもぞもぞ言った。
「ねえ、どうしてもダメかい? 本当に、ムウ様はそんなこと気にするような方じゃないんだよ。おねえちゃんさえ気にしなくっちゃ・・・。ムウ様がいいっておっしゃったら来るかい?ムウ様に聞いてこようか。」
少女が何か言おうと口を開いた瞬間、貴鬼の姿が歪んでその場から消えてしまった。
あたたかいシチューを口に含みながら、ムウは傍らに現れた貴鬼に静かに目を向けた。貴鬼が、少女がいる岩陰に隠れてから数十秒後のことだ。貴鬼が顔を赤らめながら口を開こうとする前に、ムウが言った。
「構いませんよ。お前が望むならそうしなさい。」
目も口も全開にして貴鬼は喜び、何十段もある石段を二足で飛び降りた。岩陰からこちらの様子を伺っている少女に近づくと一言二言何か言い、少女が嫌がるのを無視して白羊宮の方へ引っ張ってきた。今や少女の顔はその瞳の色に近いほど真っ赤になり、弱弱しく「待って」を繰り返している。
ムウにあと数段というところで、やっと少女は貴鬼の手を振り解いてその場にしゃがみこんだ。さっき盆を運んできた時と同じように、石段に目を落としたままムウの姿を見ようともしない。硬く胸のところで箒を握り締め、薄い肩で熱い息をついている。甘い香りが再びたちこめたが、貴鬼はもう何ともないようだった。ポンとムウの隣に座ると、横に座るように少女に勧めた。頑固として少女は身動きせずにいたが、見かねてムウが促すと、こわごわ貴鬼に隠れるようにして座り込んだ。
その瞬間を待っていたように、貴鬼が足をばたつかせながら簡単な自己紹介をし、少女に同じことを尋ねた。少女の瞳は緊張のあまり、美しく潤んでいる。上気した顔をかすかに貴鬼のほうへ向けながら、ムウにやっと聞き取れるぐらいの小声で話し出した。
少女は名をフィオナと言った。その姿にふさわしい、可憐で清楚な名だと貴鬼は思った。教皇の間で2年程前から食事係を勤めているらしい。9人分の盆をかかえて十二宮を下ってくるのは大変なので、空を飛ぶことができる彼女が配達の使命を受けたという事だった。そこまで話が及ぶと、ムウは食事の手をとめてフィオナの方を向いた。
「あなたは魔女ですね? 現代にもまだ魔女が残っていたとは、知りませんでした。」
ムウに話し掛けられてフィオナは貴鬼の影で身を硬くしたが、ムウの物腰が柔らかかったせいか、いくらか緊張をゆるめて静かに頷いた。
「・・・え。そうです。魔女は、中世に行なわれた魔女狩りによってその大半が滅びました。生き残ったわずかな魔女達も、地方の村に隠れ住み、魔術を後生に伝えることなく人間の中にその血を絶やしていったといわれています。」
「でも、おねえちゃんは魔女でしょ? やっぱり先祖が魔女だったんじゃないの?」 貴鬼が言った。
「・・・わかりません。生まれ故郷の村には、かつて魔女狩りから逃れてきた魔女をかくまったという言い伝えがありましたが、それも大昔のこと。例えそうだったにしても、何百年という時の中で、人間の血の中に消えていってしまったはずです。私は・・・先祖帰りをしたのか、何故なのかわかりませんが・・・。魔女としてこの世に生を受けました。」
一瞬、フィオナの瞳に暗い影が横切ったのを、ムウは見逃さなかった。貴鬼は興味深げに箒を覗き込んでいる。
「これで空を飛ぶんだね。いいなあ〜、おいらはテレキネシスを使うけど、空を飛び回るってことはできないもんな。ね、空飛ぶ以外に何か魔法使えるのかい?」
もう赤みもひいた白い顔を、貴鬼の方へ向けてフィオナは優しく目を細めた。
「いいえ・・・。言ったように、魔術はほとんど伝わっていないし、教えてくれる人もいなかったわ。空を飛ぶのは本能的なものなの。他は・・・そうね、多少ヒーリングができるわ。でも病気を治したり、自分の傷を治したりはできないから、あまり役にはたたないけれど・・・。」
ヒーリング? ムウはフィオナの横顔を見た。何故、魔女が神の癒しの力である心霊治療を行なえるのか?それに、第一この時代に魔女が、それもこのギリシャに生まれたという事もおかしい。何故ならば・・・
ムウの思考も、貴鬼のおしゃべりも、突然の悲鳴にかき消された。
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十二宮編2
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米粒ほどの人間達のざわめきが、この白羊宮にも伝わってきた。
「沙織さん!!」
貴鬼はフィオナの出現ですっかり忘れていたが、既に青銅聖闘士たちは到着していた。4人の聖闘士たちは、髪の長い少女を取り囲んでいる。白いドレスを纏ったその少女は、貴鬼が見ている前でその場に崩れ落ちた。
「ああっ!!?」 思わず貴鬼は身を乗り出した。ムウも盆を傍らに捨てて事態を見ている。その端で、フィオナも何が起こったのかわからない顔つきで座っていた。少年達は暫く横たわる少女を取り囲んでうろたえていたが、やがて駆け足でこちらに向かい始めた。
「貴鬼、時が来たようです。」
ムウはすっくと立ち上がり、宮の方へ踵を返した。ふと、視界の端に赤い花が映ったので、思い出したようにムウは付け足した。
「フィオナ。すまないが、この盆をさげておいてください。それから、あなたはもうここを動かない方がいい。彼らが来た以上、十二宮をうろうろするのは危険だ。」
フィオナは初めてムウの姿を仰ぎ見た。見る間にムウは宮に姿を消していく。いつの間にか貴鬼も消えていた。少年達が勢いよく近づいてくるのに気付くと、フィオナは慌てて盆を抱え込んで石段を下り、岩陰に身を隠した。しばらくすると4人の足音が近づいては通り過ぎ、白羊宮の手前で立ち止まった。
「あ…あなたは!?」 青銅聖闘士たちが驚きの声を上げた。
「ジャミールのムウ!?」
暫く彼らはそうして言葉を交わしていたが、やがて聖衣を脱いだ4人が、フィオナが隠れている岩のそばを通り過ぎていった。どうやらムウに聖衣の修復を頼んだらしい。白羊宮の聖闘士は聖衣の修復を手がけていると以前聞いたことがある。フィオナが身を乗り出して白羊宮の方を見ようとすると、不意に声がして、岩の上に貴鬼が現れた。
「貴鬼」 フィオナはほっとしたような表情を浮かべた。相変わらず貴鬼は無邪気にフィオナを見ているが、どこかその焦点は定まらない。やがて白羊宮を仰ぐと、少年達の方を見、その先の横たわる少女へ目を向け、そして再びフィオナの顔に目を戻した。その大きな瞳に不安と緊張が宿っているのを見て、フィオナは言葉を呑みこんでしまった。
それから一時間、2人は押し黙ったまま時を過ごした。やがて少年達は白羊宮の方へ歩いていき、ムウと何か言葉を交わした後、足音を立てて第2の宮、金牛宮へと去っていった。
「ムウ様・・・。」
貴鬼はフィオナを促して白羊宮へと上った。この時、はじめてフィオナはムウの顔を見た。ムウは静かに2人に頷いて見せ、横たわる少女の方へ目を向けた。フィオナもつられて目を向けた。
フィオナは危うく悲鳴をあげるところだった。地面に横たわる少女の左胸に、黄金の矢が突き刺さっている。だが、その側に仕える男性も動揺するばかりで矢を抜こうともしない。そしてまたムウも貴鬼も、駆けつける様子も無くただその様を見下ろすばかりなのだ。フィオナは少女とムウの顔を交互に見ながら、何故このような事態になっているのかわからず混乱した。その傍らで、貴鬼が師の顔を見上げた。
「ムウ様、あの矢はやっぱりムウ様でも抜けないんですか? やっぱり教皇じゃないとだめなの?」
ムウが頷いて何か言おうとした傍らで、フィオナが信じられないというような声をあげた。
「教皇? あの人に刺さっている矢は、教皇様がお刺しになられたとでも言うのですか?」
2人は顔を見合わせて、同時に頷いた。フィオナは頭を振った。
「とても信じられません! 教皇様は、とても思いやりがあり暖かい心を持ったお方・・・。その教皇様が、あんな年端もいかない娘の胸に矢を突き刺すなど・・・!」
日本の少女がアテナの名を語り、サンクチュアリに断りもなく聖闘士による格闘技戦を開催し、抹殺に向かった白銀聖闘士たちを次々と殺した。そして今度は、このサンクチュアリを征服しようとやってくる・・・。
少なくとも、フィオナはそう聞いていた。食事を配達するよう命じられて、どうかこれ以上犠牲がでなくてすむようにと、願いをこめてこの白羊宮まで下ってきたのだ。黄金聖闘士たちが、殺さない程度に青銅聖闘士たちを返り討ちにしてくれればと。
なのに、この2人は教皇が矢を刺したと言う。それも会話の内容から察すると、先程の少年達はこの少女の命を救うために教皇の間へ向かったことになる。だとすれば、教皇の方が・・・。
いや、そんなはずはないとフィオナは自分で疑惑を打ち消した。この2人は・・・牡羊座のムウは、少年達を素通りさせるだけでなく聖衣の修復まで行なった。他の黄金聖闘士たちと違い、牡羊座の黄金聖闘士は、長い間一度もサンクチュアリの招集に応じていないと聞いていた。
フィオナは教皇を信じる気持ちと、目の前の現実との間で揺れた。この人は、牡羊座の黄金聖闘士は教皇を裏切ったのだろうか?だから、青銅聖闘士たちを先に行かせた・・・。聖衣の修復まで行なった。
だが、ムウが間違った方へ見方をする人とは、どうしても思えなかった。さっき初めて見たムウの瞳は、澄んでいて真実を知る人の目だった。その彼が、教皇が矢を刺したとわざわざ嘘を言うはずもない・・・。
フィオナは顔を上げてムウを見た。ムウも先程からフィオナを見ていた。2人の目が、はじめてお互いをとらえた。フィオナはかつて感じたことのある、無限の宇宙をムウの瞳の奥に見た。ムウは、可憐な花を慈しむような優しい目をしてフィオナを見つめた。やがて、ゆっくりとした口調で話し出した。
「あなたが信じることが出来ないのは無理もない・・・。教皇は人民に尊ばれる、素晴らしい人格の持ち主・・・。しかし、近頃の教皇の動きは明らかにおかしいのです、フィオナ。そして、教皇が抹殺しようとしているあの人物こそ、真のアテナなのです。」
ムウは再び横たわる少女を見下ろした。だが、フィオナはムウの顔から目をそらさずにいた。
「サンクチュアリは何かが起こっている。・・・それは、教皇の間に仕えているあなたもよくわかっているはずだ。教皇は補佐すべきアテナに矛先を向け、この地上をアテナに変わって支配しようとしているのです。」
フィオナはもう否定しなかった。サンクチュアリの動きがおかしいことは、心当たりがないわけではない。あの少女がアテナだとはにわかに信じがたいが、少なくともムウの言葉を疑うことは出来なかった。
「だから」 それまで黙っていた貴鬼が口を開いた。
「星矢たちは、アテナを救うために教皇を目指して向かったんだよ。あの矢は、12時間経つと心臓まで突き刺さる。その前に、ここへ教皇を連れてきて抜かせなくっちゃいけないんだ。」
貴鬼は、遠くの方を仰いだ。かすんだ霧の先に、ぼんやりと巨大な火時計がそびえている。十二星座が彫られていて、白羊宮の青い火が小さく消えかかっていた。あの十二の火が全て消える時に、少女の命も絶えるだろう。
ムウは火時計を見上げるフィオナの横顔を見た。そして気付いた。言い知れぬ恐怖と不安が、彼女を支配しつつあることに。
「星矢たち、今どこまで行ったのかなあ・・・。」
どのくらい時間が経ったのか、時計台の火は一向に消えないようで、しかし確実に時を刻んでいる。重苦しい沈黙が漂う白羊宮に、貴鬼とフィオナは腰掛けていた。
柱に寄りかかったまま、頭を垂れているフィオナからは何の返答も無い。もともと独り言だったので、貴鬼は返事を催促することなく小さなため息をついた。
あれから―― 星矢たちが教皇の間へ向かってから、フィオナはこうしてずっと黙ったままなのだ。何を考えているのか、箒を握り締めて一点から目をそらさない。もちろん談笑する場合じゃないのはわかっているが、こう、だんまりを決められると正直貴鬼は参っていた。
貴鬼はもう一度フィオナに聞こえるようにため息をついて、ぷいと岩山の方に向き直った。その時、白羊宮に近づいてくる数人の影が岩山を横切った。
ムウはその頃金牛宮にいた。金牛宮の黄金聖闘士、アルデバランと2人双児宮を見上げながら何やら話しこんでいる。
その時、ムウが何かに反応した。
「貴鬼・・・?」
突然ムウは金牛宮を抜けて石段を下り始めた。アルデバランも何事かとムウの後を追う。白羊宮に入ると、入口のほうから貴鬼の甲高い叫び声が響いてくる。何かと争っているような声だ。ばたばたと宮を抜けると、眩しい光の中に2人は数人の人影を見た。
貴鬼が必死に雑兵の腕にしがみついている。4人の雑兵たちはそれぞれ槍を持ち、乱暴に誰かをとりおさえようとしている。――――フィオナだ。
フィオナは両腕を男達に捩じ上げられながら、床に跪いていた。顔を青ざめ、無言で抵抗している。何度突き飛ばしてもまた食いかかってくるので、雑兵は貴鬼のこめかみを拳で殴って岩にたたきつけた。フィオナは驚いて、立ち上がろうともがきながら非難の声をあげた。
「子供に何てことをするのです!! それでもサンクチュアリに仕える兵士ですかっっ!!」
「なんだと!?」 男達は歯をむきだしてフィオナを床におさえつけた。カチンと、フィオナの首に槍を交差させてあざけ笑うように言い放った。
「魔女が生意気な口を!! 教皇様が、サンクチュアリの乱れは魔女が原因だと、ひったててくるよう命令を下されたのだ!!大人しく来い!」
フィオナは目を見開いた。勢いよく雑兵の顔を見上げると、声を震わせながら叫んだ。
「そんな・・・そんなはずはありませんっっ!! 私は、私は教皇様の許可を得てこの地にいるのです!魔女でも良いと・・・聖域にいれば魔女の血も浄化されるだろうと、教皇様から直接お許しを・・・!!」
あっと、フィオナは顔をそらせた。矛先を首につきたてられたからだ。
「教皇様は、従わないならばその場で処刑しても良いとおっしゃったのだぞ。魔女め。身分をわきまえずにサンクチュアリに住みつくとは・・・。殺すには惜しい女だが、え?来ないと言うなら、このまま突き殺してやろうか。」
バサとマントを翻して、やっとムウが雑兵たちへ進み出た。男達は思わずフィオナから手を離した。
「何事です、これは。」
貴鬼は頭をさすりながら、怒りに満ちた師の顔を仰いだ。アルデバランも雑兵の顔を一人一人睨みまわしている。たじろぐ雑兵たちの中の一人が、とぎれとぎれ事態を説明した。ムウは厳しい目つきで雑兵を見回すと、ゆっくりではあるが、突き放すような口調で言いつけた。
「事情はわかりました・・・。ですが、その娘はここに置いていきなさい。神聖なる十二宮で騒動を起こすことは許しませんよ。」
雑兵はムウの剣幕に数歩後ずさりしたが、別の一人がかろうじて反論した。
「し・・・しかし! これは教皇様の命令で・・・。教皇の命に背く事に・・・」
「私は青銅聖闘士たちを通した・・・。教皇への反逆罪にかけるのなら、それも結構です。さあ、私も共に捕らえていくと良いでしょう。」
ムウは更に進み出た。アルデバランは後ろでこぶしをならした。ついに男達は槍を放り投げて、岩から岩へと飛んで逃げていった。
「フィオナ・・・。」
ムウは静かに膝をついてフィオナの顔を覗き込んだ。 「・・・大丈夫でしたか?貴鬼が知らせてくれた。」
「・・・え。大丈夫です。・・・平気です。」
ムウは、そう言ったフィオナの冷たさに目を見張った。震えるでもなく、涙を流すでもなく、ただ一点だけを見つめて無感情にムウに答えを返すのである。白羊宮に舞い降りてきた時の、甘く酔いしれるような情熱は見る影も無い。その顔にはただ氷のような冷たさだけが宿っていた。
フィオナはねじ上げられていた腕をさすると、立ち上がろうとして、突如目の前に突き出された箒に顔を上げた。貴鬼だった。それも瞳に涙をいっぱいためている。ふと、その瞳を見たフィオナの顔に血色が戻った。貴鬼は唇を震わせながら、必死に涙をこらえている。
「・・・ごめんよ。おいら、おねえちゃん・・・フィオナを守ってやれなくって。テレキネシス・・・つ、使えなかったんだ。フィオナを巻き添えにしちゃいそうだったから・・・。何とかあいつらを引き剥がそうとしたんだけど、おいら・・・おいらまだ、女の人一人守れることもできないんだ!」
鼻頭にしわを寄せてしゃくりあげる貴鬼を、フィオナは無表情のまま見上げた。その時貴鬼のこめかみから血が一筋流れ落ちた。それまで黙って見ていたアルデバランは貴鬼に近づき、よくやったぞと頭をなでた。ついに貴鬼が嗚咽を洩らした。
その箒を持った小さな手を、そっと白い手が包んだ。フィオナは腰をあげ、そっと貴鬼のこめかみに手をやった。そして顔を近づけながら、小さく、貴鬼しか聞き取れない声で「ありがとう」とつぶやいた。
…悲しみも悔しさも、不安も恐怖もそこには存在しない。母の胎内の安らぎのような、あたたかい春の日の木漏れ日のような、不思議な温もりに貴鬼は包まれていた。そっと目を閉じると、優しい光が瞼いっぱいに広がっている。光の向こうに、一段と明るい、崇高な輝きを貴鬼は見た。その輝きの方から、かすかに美しい旋律が聞こえてくる。聞いた事はないはずだが、いつもどこかで流れていたような、懐かしい歌だ。
貴鬼は目を閉じたまま、その歌に耳を傾けた。もっと輝きの方へ近づけば、よく聞こえるような気がする・・・。貴鬼は手のひらを差し伸べた。
不意に柔らかい感触が手にあたって、貴鬼は目を開けた。フィオナの頬だった。濡れている。貴鬼にヒーリングを施しながら、静かに涙を流しているのだった。
「フィオナ」
フィオナはかすかに微笑んだ。貴鬼はフィオナという少女を知った――・・・。魔女の持つ魔力だろうか、その可憐な姿から漂う甘い香りからでもない、消え入るような透き通った声からでもない、この少女の中に広がる、無限の光を――・・・。春のようなあたたかさを。
陽光が白羊宮を照らし出した。フィオナの白い体がその中で柔らかく浮かび上がった。貴鬼の傍らで、ムウもまたその光を見た。
空は既に群青色に染まり、数多の星座が十二宮に降り注いでいる。岩々は氷柱のようにしんしんと冷め、青白い月光が、その肌をグロテスクに浮かび上がらせている。
ムウは火時計を見上げた。宝瓶宮の火が、また一段と輝きをなくした。火が消滅するたびに、傍らの赤い花が小さく身を震わせるのを、ムウは知っている。今も、かすかに声を洩らしてフィオナはおののいた。火時計の時を刻む音が伝わってくるような静寂の中で、フィオナのか細い動悸は最頂点に達した。
「ムウ様・・・」
フィオナは初めてムウの名を口にした。だが、フィオナはその事実に気付いていないだろう。今やその顔は、月よりも蒼白だ。しかし、ムウは無防備にその顔に目をやるわけにはいかなかった。戦慄に襲われてはいるが、柔らかな三つ編みが揺れる襟元からは甘く酔いしれるような香りが常に漂ってくるし、二つの赤い瞳は、女豹のような妖しさをかもしだしているからだ。無論、それらはフィオナの意識下のものではない。だが、全ての感情を超越した黄金聖闘士でさえも魅惑するには事欠かなかった。貴鬼は子供ながらに克服したが、ムウにはまだ警戒が必要だった。
ムウは一度目を閉じてから、静かにフィオナへ目を向けた。すぐに、フィオナの薄い肩が震えていることに気がついた。
「フィオナ・・・」 ムウは体をフィオナの方へ向けた。
「・・・大丈夫です・・・。彼らは必ず、時間内に教皇をアテナのもとへ連れてきます・・・。」
「あの方達は」
フィオナの不安がそこにはないことに、ムウはまだ気付いていない。
「青銅聖闘士の方々は、今・・・今、どの宮にいらっしゃるのですか?」
ムウは小さく微笑んだ。フィオナの心配をなだめるために。立ち上がると同時に、宝瓶宮の火が消えた。そして、双魚宮の方を仰ぐと静かに言った。
「星矢と瞬が今、十二宮の最後の宮、双魚宮にいる・・・。紫龍は磨羯宮で、氷河は宝瓶宮で、その命と引き換えに勝利をおさめた・・・。あと残り1時間足らず・・・。しかし、必ず2人が教皇の間に――」
不意に箒が床に落ちる音がして、ムウは振り返った。口を両手で覆って、立ち尽くしているフィオナがいた。瞳をわなわなと震わせている。
「今・・・今、何と・・・?」
「・・・え?」
「宝瓶宮で、どなたかが命を落としたと・・・。命と引き換えに勝利をおさめたと・・・?」
ムウは困惑の色を顔に浮かべた。この時初めて、この娘の不安が他にあることを悟った。黙って青白い面を見つめていると、恐怖の色は絶望となってフィオナに襲いかかった。
「カミュ様はっっ!!?」
「・・・・・・―――」
「カミュ様はどうなったのですっ!? ・・・ムウ様!!」
フィオナはムウの胸元に詰め寄った。ムウは、フィオナが何を恐れていたのかを知った。この十二時間、この少女が火時計に何を見ていたのかを。
「ムウ様・・・」
「カミュ様はご無事だと・・・ そうですね? おっしゃってください。ご健在だと!」
「フィオナ」
ムウはフィオナの両肩に手をおこうとした。だが、赤い花は幻影を残して姿を消した。止めるまもなく、フィオナは箒にまたがり舞い上がった。辛うじて、箒の末端をムウはつかんだ。
「いけません! フィオナ! 上は闘いがあっているのです! 不用意に近づいては巻き添えを食ってしまう!」
「・・・っ! 放してえっっ! 放してくださいっ!! カミュ様をお助けしなければ!今ならまだ間に合う!!」
「フィオナ・・・!」
ムウは念力で箒の動きを止めた。フィオナの意志に反して、箒は次第に降下していく。フィオナは嗚咽を洩らしながら抗った。ついには箒を捨て、宮を抜けようと走り出すのをムウは取り押さえた。
「い・・・や!! カミュ様が! カミュ様がぁっ!! ・・・・・・カミュさまあ―――っっ!! カミュさまあぁぁっっ!!」
ふっ、と、不意に力がぬけて、フィオナはその場に崩れ落ちた。抱きとめると、固く閉じた瞼から涙が一筋こぼれた。ムウの後で、駆けつけた貴鬼が目を丸くして立ちすくんでいた。
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十二宮編3
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青銅聖闘士たちの激戦は幕を閉じた。仲間の犠牲を払いながら、ついに星矢は教皇を倒した。金色の光がアテナ神殿から沙織の下へ降り注いだその瞬間、黄金の矢は消え去り、アテナは死地から甦った。教皇サガは自らの罪を悔いて自決し、十二宮は今、アテナ復活の祝福に包まれている。ただひとつ、白羊宮を除いては。
静まり返った宮の中に、時折小さい呻き声が聞こえている。悲しみのあまり気を失ったフィオナは、巨大な石の柱の影に隠されるようにして横たわっていた。白いマントがかけてある。目じりから耳元へはらはらと涙を流しては、うわ言を繰り返しているのだった。
ふと、傍らに現れたムウの気配にフィオナは目を覚ました。薄暗い中に、憂いを含んだムウの瞳が浮かんでいる。フィオナは暫くそれを見つめていたが、やがて静かに身を起こした。
「・・・カミュ様のところへ行きます。」
ムウは止めなかった。止める理由はもうどこにも無い・・・。
2人は宝瓶宮へと果てしなく続く石段を進んでいった。金牛宮ではアルデバランが、今にも散ってしまいそうな花の姿に目を見張った。無人の双児宮を抜け、これも今や守る主人のいない巨蟹宮を通り過ぎた。獅子宮では破壊された柱の残骸をかわしながら進まなければならなかった。アイオリアの姿は無い。獅子宮を抜けると、これも戦いの爪あとが激しい処女宮だ。先程ムウの援助を得て舞い戻ったシャカが、2人の気配に門まで出てきた。
「ムウ」
シャカは長いブロンドの髪をした、目鼻立ちの綺麗な青年だ。その両眼は常に閉じられている。
シャカはムウの隣の姿に顔を向けた。一瞬、シャカは眉をしかめた。だが無言で道を譲り、通り過ぎていく2人を見送った。いや、その閉じられた瞼の奥の瞳は、フィオナの後姿に注がれていた。
それからはいずれも無人の宮が続いた。天秤宮、天蠍宮、人馬宮、そして磨羯宮。
そしてついに、2人は石段の上にそびえる宝瓶宮を目にした。ムウはちらとフィオナを見た。だが、フィオナは表情を変えることなく足を先に進めていく。ムウもその後に続いた。
宝瓶宮は真っ白に照り返っている。近づくほどに、凍てつく冷気が肌を刺した。吐く息の結晶が見えるほど宮の中は気温が低い。半袖の服一枚のフィオナは、入った途端に凍死してしまうだろう。ムウは入口の前で止めようとフィオナに手を伸ばしかけた。だが、はじかれたように手をひいた。
フィオナの全身を、柔らかな光が包んでいる。宮に足を踏み入れると同時に、床にはった氷がかすかに溶けた。ムウは入口にたたずんだままその姿を見送った。春のような、そのあたたかい光は少し前ムウも目にした。フィオナが貴鬼にヒーリングを行なっている時だ。
だが、今フィオナから放たれる光は、その比ではない――。 ・・・そう、アテナの放つ小宇宙に似たような・・・安らぎに満ちた、そして底知れぬ光なのだ。そしてそれは、明らかに聖なる者の持つ輝きだった。
宮の奥のほうに、カミュは横たわっていた。勇壮な顔つきをしている。しかし、その瞳は固く閉ざされ、纏った水瓶座の黄金聖衣も白く凍りついている。その傍らに膝をついていた天蠍宮の黄金聖闘士、ミロは、不思議な輝きを放つフィオナの出現に驚いて立ち上がった。
フィオナは横たわるカミュの側まで来ると、目を細めて静かに膝をついた。そして、おもむろに細い指をカミュの聖衣の上に重ねた。
瞬間、氷が蒸発する音がして、凍てついていた聖衣は黄金の輝きを取り戻した。フィオナを包んでいた光がカミュに流れ、2人の体は光の中に浮かび上がった。
その光景を目を丸くして見下ろしているミロの側に、いつの間にかムウが来た。ミロはまた驚いてムウに何か言おうとしたが、その表情を見てやめた。そして、同じようにフィオナに目を向けて、自分たちの周りの氷が次第に溶けていく様を見守った。
やがて、宮全体が光に包まれた。まさしく、雪が解けて新たな生命が誕生する、春の訪れであった。
だが、一度雪の中に身を横たえた若い命は、再び太陽の光に眼を開くことは無かった。
あっ、と、思わずミロは身を乗り出した。次第に光が弱くなり、やがて消えたと思うと、フィオナがそのままカミュの胸へ倒れこんだのだ。その口元には、かすかな死微笑が浮かんでいた。
「ムウ!」
ミロは青い瞳をムウに注いだ。ムウは暫く2つの遺体を見下ろしていたが、やがてフィオナの側に膝をつくと、両拳をその薄い背中に置いて小宇宙を燃焼し始めた。
もう既に、かなりの小宇宙をフィオナに流し込んでいる。これ以上長引けば、ムウの生命も危ういだろう。見かねてミロも加勢に加わろうとしたその時、小さくフィオナの心臓は鼓動を始めた。
ムウは床に手をついて、少しの間呼吸を整えた。そしてフィオナの体を起こすと、唇に血色が戻りつつあるのを確認した。ミロもまたその顔を覗き込んだ。
「・・・ムウ、この娘は一体何者なのだ・・・。教皇の間に仕えている魔女のことは知っていたが、しかし、先程の光は魔女のものではない。あれは聖者が行なうヒーリングの一種だろう?」
ムウは頷いた。
「フィオナは、多少のヒーリングを行なえると言っていた。実際に施すところも見た。しかし、その時点では一般的な心霊治療とたいして変わりは無かったのです。魔女にも、そういう力が備わっているのかもしれないとしか思いませんでした・・・。しかし、今彼女が行なったものは明らかに違う。確かに自らの生命を注いでいたせいもあるでしょうが・・・底知れぬ、そして安らぎに満ちた光だった。」
「われわれ黄金聖闘士の中にもいない…。ムウ、彼女はまるで…。」
「・・・ええ。」 ムウはフィオナを抱えて立ち上がった。
「フィオナには、何かある・・・。アテナが降臨したこのギリシャの地で、闇の存在であるはずの魔女が再び甦った・・・。そしてまた、相反する聖なる力を持っているのだ。」
十二宮から少し離れた、一軒の石造りの家。小さい長方形の窓の向こうに、赤い頭が見え隠れしている。その頭は部屋に入ってきた男と一言二言言葉を交わすと、窓から姿を消した。男も窓から見えない所へ消えた。
すると、勢いよくドアが開く音がして、貴鬼が手に桶を持って外に飛び出してきた。貴鬼は家から数十歩離れた井戸の所へ行くと、人差し指で桶を宙に浮かして、井戸の中に放り込んだ。
夕靄に霞む岩山の傾斜に、十二宮がそびえているのが見える。黄金聖衣を脱いだムウは、その光景を窓越しに見つめていた。夕日が差し込む窓の下には、ベッドに横たわるフィオナの姿があった。
フィオナが命を賭してカミュを救おうとした日から2日。その生命力はムウの小宇宙によって補われたが、一度命の灯火を失った肉体は、まだ起き上がるには衰弱が著しい。その間、貴鬼がつきっきりで面倒を見ているのだった。
ムウはフィオナに目を向けた。陽光に照らし出されたその顔は美しい。長い間、何者にも気付かれることなく眠りつづけてきたような、穏やかな寝顔だった。ムウはその頬に手を触れてみたい気がしたが、貴鬼の足音に踵を返して部屋を出た。入れ違いに水のはった盆を抱えて貴鬼が入ってきた。
「ア、ムウ様出ていてください。フィオナの体を拭きますから。」
それから7日後。かつての活気を取り戻しつつあるサンクチュアリには、アテナを始め、黄金聖闘士たちも思い思いの場所へと去り、今十二宮には誰もいない。
いや、ムウだけが未だ白羊宮に残っていた。しかし聖衣は纏っていない。今日も、宮の中に消えてはまた姿を現したりを繰り返している。ふと見ると、これも聖衣を脱いだ獅子宮の黄金聖闘士、アイオリアがこちらへ歩いてくる。2人は笑顔をかわすと、どちらが言うでもなく石段に腰をかけた。
「サンクチュアリは変わったな。」 アイオリアは短い茶色の髪を掻きながら言った。
「ええ。教皇がいなくなりましたからね・・・。いや、アテナが復活したからかもしれない。いずれにしろ、邪悪の火種が消えたことで少なくとも地上には平和が訪れる・・・。」
「星矢たちには、すまないことをした・・・。俺さえ油断しなければ、あんなことにはならなかったものを。ムウよ、もしまた地上の平和を脅かすような存在が現れたあかつきには、次こそ俺達が戦わなければなるまい。」
アイオリアは正義感の強そうな顔をムウに向けた。ムウは頷いて見せたが、どこか焦点の合わない目をしている。何か気になることがあるのかとアイオリアが尋ねると、暫くの沈黙のあと、ムウは口を開いた。
「アイオリア、ずっとこのサンクチュアリにいた君なら知っているでしょう。教皇の間に、魔女が仕えていることを。」
ムウの口から出たことが意外な話だったので、アイオリアは少し拍子抜けしたような顔をした。
「ああ・・・。知っているとも。フィオナとか言う目の赤い娘のことだろう。美しいと評判で、サンクチュアリで知らない者はいない。この前も食事を運んで―― ムウ、お前のところにも来たんじゃないのか?」
「ええ。来ました。しかしアイオリア、何故魔女がサンクチュアリに仕えるようになったのか知りませんか。」
ムウも不思議なことを訊くものだと、アイオリアは訝しそうに横目使いをした。
「さあ・・・詳しいことは知らん。確か2年ぐらい前に来たんじゃないかな。何しろ、魔女だし、大変な美しさということで―― その噂は1日足らずでサンクチュアリに行き渡ったよ。始めは誰もが教皇の側に仕えるものと思っていたが… それがどうかしたのか?」
「いえ、別に・・・」
ムウは話を止めた。おそらくアイオリアからこれ以上の情報は望めないと判断したからだ。しかし、アイオリアは話を続けた。
「ふむ、しかし魔女の出現を良く思わない風潮はあったな。何世紀も前に滅んだはずの魔女が、この聖域にやって来たことで何か不吉なことが起こるのではないかと・・・。しかし、教皇が直々に滞在の許可を与えたものだから、誰も文句を言う者はいなかったが。・・・ところでムウ、お前の弟子が手をふっているぞ。」
ムウは顔をあげた。見ると、向こうの方で貴鬼が両腕を振って合図している。ムウは立ち上がり、短く言葉を交わすとその場から姿を消した。
「ムウ様」 目の前に現れた師に、貴鬼は一歩進み出た。ムウは貴鬼の言葉を遮るように頷いた。
「ここにいなさい、貴鬼。」
そう言い残すと、ムウは再びその場から姿を消した。
家に入ると、丁度フィオナが起き上がろうと苦心しているところだった。10日近く眠っていたのだ。ひどい目眩に襲われて、フィオナはベッドに倒れこんだ。ムウに気付くと、尚更起き上がろうともがいた。ムウはそれを制止して、静かにベッドの横に膝をついた。
「具合はどうですか、フィオナ。まだ寝ていた方がいい。」
顔を覗き込まれると、フィオナは慌てて毛布を鼻まで引き上げた。
「あの・・・ここは? 私、一体どうしたのですか?」
フィオナはぐるぐると部屋を見回した。貴鬼は目が覚めたことに驚いて、そのまま駆け出していったらしい。知らない部屋に、それもムウが入ってきたことで完全にフィオナは動転していた。
「安心しなさい。ここは十二宮から少し離れた一軒家だ。あなたは少し眠っていただけです。完全に体調が良くなるまで安静にしておきなさい。貴鬼が面倒を見ますから――」
貴鬼の名を聞いて、かすかにフィオナの目に安堵の色が浮かんだ。そして、暫く真っ赤に染まった窓を夢見心地で眺めていたが、何か記憶を呼び起こしたらしく、突然びくんと身を震わせた。
野花のような唇は色を失い、体の震えを隠すことなく戦慄に身を委ねている。ムウは目を閉じた。あの悲しい悲鳴が再び聞こえるような気がしたからだ。
熱い雫が、フィオナのこめかみを伝った。
「フィオナ」
そっと、白い腕をムウは包んだ。
「あなたに感謝を・・・。あなたの想いは、カミュの魂を天へと送り届けてくれた。カミュもあなたを想うでしょう。どうか、悲しみに身を滅ぼさぬように・・・。」
フィオナは目を閉じて、二度頷いた。それから、2人は言葉を交わすことはなかった。陽が落ちて、星明りが部屋を照らすようになっても、二つの影は微動だにしなかった。
「あ。」 家を見下ろせる岩の上にずっと腰掛けていた貴鬼は、頬杖を解いて身を乗り出した。そしてすぐに自分の隣に目を移した。ムウが現れ、貴鬼と同じように座り込んだ。
「ムウ様・・・。フィオナは・・・?」
「・・・・。今は、そっとしておいてあげましょう。朝になったら、食事をとらせなくてはなりません・・・。」
「うん・・・。ムウ様、フィオナはきっと、元気になるよね? おいら、フィオナが泣いているのは嫌だもの。」
ムウは優しく貴鬼を見下ろした。
「フィオナが好きかい、貴鬼?」
問われると、貴鬼は目を輝かせた。
「うん!! 大好きだよ! だって、フィオナって綺麗だし優しいしサ。もちろんアテナもそうだけど・・・。何ていうのかな、フィオナってすごくあったかいんだ。何だかとっても、母さんみたいで・・・」
そこまで言うと、貴鬼はムウの顔色を窺った。母親のことなどを口にして、叱られるのではないかと思ったからだ。しかし、ムウは微笑んで小さく頷いた。安心して貴鬼も笑顔を返した。
翌朝。いつもより早起きした貴鬼は、せっせと食事の準備に取り掛かった。かれこれフィオナは10日近く食事をとっていない。くつくつと鍋が煮る音を聞きながら、おいしそうに食事をとるフィオナの姿を思い浮かべて貴鬼は胸を躍らせた。フィオナに会える。また、あの笑顔が見れる。
出来上がった料理を抱えて部屋に行くと、扉の前でムウが待っていた。また、自分だけ追い出されるのではないかと貴鬼は不安に思った。いくら師とは言え、フィオナを元気付ける役だけは譲れない。
だが、ムウは貴鬼に部屋に入るように合図しただけで、料理を横取りしようとはしなかった。胸をなでおろして貴鬼はドアを開けた。久し振りに言葉を交わすことへの期待感で貴鬼は笑顔をフィオナに投げかけたが、その姿を見た途端ぐうの音も出なくなった。
痛々しい。一晩中悲しみに打ちひしがれたのだろう。貴鬼が毎日丁寧に櫛で梳いていた髪は乱れ、精根尽きたようにベッドに沈んでいる。2人が入ってくるとわずかに顔をそらした。
「・・・フィオナ」
貴鬼は、フィオナがカミュの死を悟って狂乱している姿を直接見たわけではない。彼女がカミュを救おうと、その命を捧げたという話も後から聞かされたもので、正直フィオナの悲しみがどの程度のものか想像していなかった。
今までの淡い期待が泡と消え、手に持った料理が石のように重く感じた。不意に、大きな手が背中を押した。ムウだ。貴鬼は口をぐっと結んで、ベッドの側まで歩み寄った。うつろな目が貴鬼をとらえた。
「おはよう、フィオナ。起きてご飯を食べないかい? おいらのお手製さ!!」
貴鬼は目配せをして盆を脇に置き、フィオナを起こそうとした。だが、白い手は毛布をつかんだまま放そうとしない。優しく肩に手を回しても、頑なに起き上がろうとはしなかった。ついには顔をうずめてそっぽを向いてしまうのである。貴鬼は弱りきってムウを振り返ったが、ムウは腕組みをしたまま事態を見守るだけだ。
「ねえ、フィオナ・・・。頼むから起きて食べておくれよ。フィオナはずっとご飯を食べていないんだよ。食べないと、死んじゃう・・・」
「いいの。」 毛布の中からくぐもった声が聞こえた。
「ごめんなさい・・・。でも、そんな元気がないの。お願い、もう少しだけ一人にさせて・・・。」
毛布の中から鼻をすする音がして、ますます薄くなった肩が震え始めた。
と、同時に、別の嗚咽が漏れた。吃驚してフィオナが顔を上げると、大粒の涙が枕に落ちてきた。その先を見ようと目を上げた途端、不意をつかれる形でフィオナの体は引き起こされた。ひどい目眩に襲われてフィオナは倒れかかった。それを誰かが抱きとめた。
いや、抱きついたのだ。
視界がぐるぐる回るのがようやく治まって、初めてフィオナは、貴鬼が首にしがみついているのに気がついた。あたたかい雫が、フィオナの首から背中へと伝っていく。しゃくりあげる不規則な呼吸が耳にかかり、肩がねじれるほど強く抱きしめられている。
「貴鬼」 フィオナは胸にぶら下がった小さな背に手を置いた。貴鬼は息苦しそうに嗚咽を呑み込んだ。
「・・・・耐えられないよ!!」
え、とフィオナは貴鬼の頭を覗き込んだ。その声が悲鳴に近かったからだ。
「おいら・・・フィオナが泣いているのは嫌だよ!! おいら、フィオナにはいつも笑っていてほしい。フィオナが悲しいと、おいらまで悲しくなっちまう!!」
たまらず貴鬼は大声を張り上げて泣き出した。泣き付かれたフィオナは目を丸くしてただ困惑した。
その時、ふと、入口に立つムウに気がついた。
瞬間、その瞳に全身が吸い込まれた。いや、ムウがフィオナの中に入ってきたのだろうか?
無限に広がる、十二宮でムウの瞳に見た、あの広大な宇宙が、フィオナの中にもまた広がっていた。そして、その暖かな小宇宙が、フィオナの胸を暖かく包み込んでいることを知った。
人の温もりに触れた涙が、静かに頬を伝った。細い手が貴鬼の体を抱きかかえた。小さな心臓の鼓動が、フィオナの鼓動と共鳴した。フィオナは目を閉じて、小さく、しかし、今度ははっきりとささやいた。
「ありがとう。」
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十二宮編4
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それから数日後。
ようやく歩けるまでに回復したフィオナは、教皇の間に出向いて辞退の意を述べた。食事の配達に行ったきり、行方をくらましていたフィオナの突然の申し出に、同僚たちは止めることもできずただ呆然とフィオナを見送った。
フィオナは足場の悪い、岩肌の道を歩いていた。道の先は、野花が彩る日当りのいい墓地。自らの命を捧げても甦ることの無かった、カミュの墓に参るために――。
白羊宮の入口で、ムウと貴鬼は二人並んでフィオナを待っていた。
陽光が気持ちいい。小鳥が飛び交い、まるで、全てが自分たちを祝福しているように貴鬼には思えた。
あの後、フィオナが再び生きる気力をとりもどした後―― ムウは貴鬼が弟子になってから、最高の贈り物をした。
それは、フィオナをジャミールにあるムウの館へ招くこと。もちろん、ムウは貴鬼のために申し出たのではない。だが、少なくとも自分の希望を汲んでいることを貴鬼は知っていた。
もし、あなたさえ良ければ、私の館に来て身の回りの世話をしてもらいたいのですが――
決定するまでそう時間はかからなかった。
実際は、フィオナの意思よりも貴鬼の押しのほうが強い。ムウの申し出を端で聞いた貴鬼は小躍りして喜び、フィオナが必死に何か言おうとするのを無視して、一方的にジャミール行きを決定したのだった。
フィオナとしては、考えてから返事を出したかったのだが、嬉々するその姿についには折れて、この子が一緒ならと承諾した。それに、それより後になって聞いたことだが、ムウはフィオナの命を救うために多量の小宇宙を与えたらしい。その時、フィオナは理解した。何故、ムウと瞳が合った時、無限に広がる宇宙を2人の間に感じたのかを。
自分がカミュに命を捧げたのにはそれなりの理由がある。でもムウは、十二宮で半日一緒にいただけの間柄だった。何故、小宇宙をけずってまで私を救ったのか―― とにかく、命の恩人の申し出を無下に断るわけにはいかない。
それに―― これはムウの考えでもあった。
フィオナは、教皇の許可を得てこの地に留まっていた。その教皇は死んだ。また、その教皇の命で、反逆の罪で捕らえられかけた。どのみち、これ以上サンクチュアリには居辛くなる事は明確である。
また、ムウ個人としては、魔女の誕生の謎、そして相反する聖者としての力を持つフィオナの正体を、もう少し確かめたい気持ちがあった。。いや、それ以前に・・・ これに関しては貴鬼が望むだろうからと理由付けていたが。
そういういきさつで、2人は今、フィオナがカミュを参るのを待っているのだった。
貴鬼が今か今かとせわしなく歩き回っていると、ふと、さえずりあっていた小鳥が白羊宮の屋根にとまった。土埃を舞わせる空風もぱたと止んだ。
一面の碧空に、優しい静寂が訪れた。ムウは空を仰ぎ、さわやかな空気を胸いっぱいに取り込んでみた。穏やかだ。そう、まるで春のような――
あっ、と、貴鬼が身動きを止めて何かを聞き取ろうとした。ムウもこの静寂が、自然の産物でないことに気がついた。それまで、暖かい日光のせいだと思い込んでいたが、この安らぎに満ちた感覚は前に感じたことがある。
「フィオナだ!」
両手を耳に当てて貴鬼が叫んだ。
「フィオナだよ! フィオナが歌ってる・・・。うん、間違いない! おいら、この歌聞いたもの・・・。フィオナがおいらの怪我を治してくれた時に・・・。流れてたんだ、この歌が。」
貴鬼はそっと目を閉じた。母の懐に顔をうずめたように、安堵に満ちた微笑をその顔に浮かべて。ムウも、歌声が聞こえてくる方を仰ぎ見て目を細めた。今この時は、この歌だけを聴いていたいような気がした。例え背後に敵が迫ろうとも、この時だけは気付かなかったかもしれない。
小さな花々に囲まれて、フィオナは清らかな声で歌を歌いつづけた。その瞳からは、とめどもなく涙が溢れ出ている。そして、その前では、真っ白な墓標が静かに耳を傾けていた。
――さようなら・・・・
花の上で羽を休めていた蝶が、悲しげに身を震わせた。
――さようなら・・・・・カミュ様・・・
一斉に、蝶が花びらと共に空へと高く舞い上がった。
後には、ひらひら、ひらひらと弧を描きながら、花びらの雨が、若くしてその生涯を終えた者たちの亡骸へと降り注いだ。
「あ、来た!」
向こうからやってくる白い人影を見つけて、貴鬼は一目散に駆け寄った。柄の太い、柔らかな藁で仕上げた箒を抱え、簡単な荷物を手にしたフィオナが貴鬼の姿を見つけて優しく微笑んだ。ムウもまた、その姿を見て薄く笑みを浮かべた。
その時、石段を降りようとしたムウを誰かが呼び止めた。振り返ると、暗い宮の中に聖衣を纏ったシャカがたたずんでいる。
「シャカ」 ムウは驚いて踵を返した。 「まだサンクチュアリにいたとは・・・。」
シャカは閉じた瞼の奥からムウを見た。その表情は険しい。暫くの沈黙の後、おもむろに口を開いた。
「・・・あの娘を連れて行くのか。」
2人は、石段の下でムウを待つフィオナに目を向けた。フィオナは貴鬼と何やら楽しげに話している。ムウはシャカに顔を向けると、目をそらさずに頷いた。シャカは厳しく眉をひそめた。
「・・・気をつけたまえ。」
「何ですって?」
「あの娘には、底知れぬ闇の存在を感じる。成程、眼を開けばその妖艶な姿にまどわされもしよう。だが、このシャカにはしかと見えるぞ。あの娘に秘められた、不吉な兆候がな。ムウ、君に見えぬはずがあるまい。一度、心の目を持ってあの娘をとらえてみるがいい。」
「・・・・・。・・・・・・・。・・・シャカ、あなたも一度、その両眼を開いて彼女の瞳を見てみると良いでしょう。きっと、闇をも覆う光を見るに違いない。」
そう言い残すとムウは石段を駆け下りた。それまで談笑していた2人は、ムウの厳しい表情に口をつぐんでしまった。ムウは気付いて笑みを浮かべた。だが、その仕草がぎこちないことを知り視線をおとすと、取り繕うように右手をフィオナに差し出した。
「もう・・・やり残したことはありませんね?」
差し出された手をどうすればいいのか戸惑いながら、フィオナは短く頷いた。
「では・・・私の手をとりなさい・・・。貴鬼、ちゃんとついて来るのですよ。」
貴鬼が無邪気に頷くのを見届けると、ムウは一度は躊躇して、そしてフィオナの細い手首をそっと掴んだ。驚いて目を丸くするフィオナの顔を、ムウは静かに見下ろして言った。
「・・・ようこそジャミールへ」
ジャミール編へ:id:witchsanctuary:20120726
ジャミール編1
フィオナは後悔した。
何故、あの人に着いてこんな辺境の地へ来てしまったのか――。だが、全ては後の祭りだ。このジャミールからは、瞬間移動でもしない限り下界に戻ることは不可能なのだから。
あの日―― 十二宮からそう離れていない一軒家で、ムウに館へ来ないかと言われた時――、フィオナの心を動かしたのは、貴鬼のまっすぐな優しさと、何よりも、ムウに感じた雄大な小宇宙だった。
全てを包み込んでくれるような、ムウの小宇宙…
カミュを救おうと、命を投げ出したフィオナの生命力は、その大半がムウの小宇宙によって補われている。ムウと目が合う瞬間、ムウの側による瞬間、フィオナの体内の小宇宙とムウの小宇宙が強い共鳴を起こすのだ。フィオナはそれに惹かれたのだった。
もちろん、だからと言ってフィオナが普通の乙女のように、淡い期待を胸に描いてムウについてきたわけではない。むしろ、ムウがそういうつもりでフィオナを引き取ったというのであれば、逆にフィオナは激しく拒否反応を示すだろう。
では、何故ジャミールに来るに至ったのか? それはここ数日、フィオナが自分自身に問いかけている疑問だった。
ジャミールに来て5日目。
フィオナはすっかり心身ともに疲れきっていた。と、言うのも、環境があまりにも想像の域を超えたものだからである。
まず、このジャミールという地。ヒマラヤ山脈の中にあるということは聞いていたが、ここまで人界からかけ離れた場所だとは思っていなかった。昔、何かの映像で見た、不思議な伝統に包まれた東洋の村だと想像していたのである。だが、実際は見渡す限り山脈の、辺境の地だった。
山の民チベット族でさえ恐れて近づかないといわれる、標高6千メートルを超える魔境の地、ジャミール。ムウに漂う神秘的な輝きは、この地の暮らしから来るものなのかもしれない。
ムウの館は岩山の崖に聳え立つ、侵食の進んだ石塔だった。その姿だけでも十分驚くのに、更にフィオナの度肝を抜いたのは、どこを見ても入り口が無いという事実だ。入り口だけではない。中には階段も無いのだ。成る程、空を飛べるフィオナか、瞬間移動を使えるムウでなければ暮らすことのできない、絶壁の砦なのである。
館での生活様式も、ギリシャでの常識が通用しないものばかりだった。単に、慣れないアジアの文化に戸惑うだけなら良いが、魔境での暮らしは、あらゆるものが人智を超えている。
そして、何よりも、フィオナの精神をむしばんでいるのが、ムウと貴鬼の2人だった。
サンクチュアリの時とは打って変わって、まるでフィオナがいないかのように気にもかけないのだ。ムウは一日中最上階にこもっているか、知らぬ間にどこかへ消えているかで、食事に呼んでも顔を出さないことがしばしばある。この数日間、言葉一つ交わしていない。
貴鬼は貴鬼で、あきらかによそよそしい。昼間は修行だろうか、どこかへ出かけてしまうし、食事の時も勢い良くたいらげてしまっては、さっさと席を立ってしまう。わからない事を聞く振りをして話しかけても、あっさりとした返事しか返ってこないのだ。
(この人たちは、何のために私を連れてきたのかしら?)
よく、そう思う。もちろん、ここに客としてきたわけではない。黄金聖闘士の身の回りの世話をするために来たのだ。主人が使用人に愛想を振る必要など無いし、フィオナ自身、決してそういう事を期待することは無い。
でも…冷たい。フィオナは珍しく、そう感じていた。これまでの人生から、決して人の愛情を得ようなどという愚かな期待を抱くことのないはずのフィオナが、貴鬼の、そして何よりもムウの冷たい態度に、寂しさを感じていた。
ジャミールに来てから、一体いくつの夜が訪れたことだろう。実際は、まだ両指で数えられるほどの日にちしか経っていないのだが、果てなく長い年月の中にいるような心地がするのだ。
今夜も、重い体を横たえたフィオナの頬を、青白い月光が照らし出した。暗闇の中で鈍い輝きを放つ赤い瞳が、対照的に、冷め切ったヒマラヤの月を映した。
フィオナは暫くそうして横になっていたが、やがて、見えない力に引き起こされるように立ち上がると、壁に立てかけた箒に手を伸ばした。
寒い。それもそのはず、ヒマラヤ山脈の頂なのだ。だが、フィオナは薄手のカーディガン一枚を羽織っているだけだ。
フィオナの薄い唇から漏れる息が、空中で結晶と化して、ヒマラヤの夜空にきらきらと消えていく…。
ああ…。
ため息とも取れぬ声を、フィオナは漏らした。白い息の行き着く先を追っていくと、心の中にまで降り注いでくるような満天の星空が、無限に広がっているのだ。
フィオナは、もう一度またたく星々の間に小さい結晶を飛ばすと、それを追うように箒に腰をかけて夜空へと舞い上がった。貴鬼の眠る階を越え、立ち入りを許されないムウの部屋を後に、フィオナの白い体は高く高く上がっていく。
やがて、その姿が星になったのではないかと思われるくらいの高さで、フィオナは上昇をやめた。
左肩に寄せた髪が、大気に柔らかく浮かびあがる。光に照らし出された宝石のように、フィオナの瞳は眼下の景色に煌いた。
…美しい。一面の山々が、月明かりを受けて目を射るばかりに輝いている。下から吹き上げてくる風が、フィオナの心も幻想的な星空へと舞い上げた。今、まさしくフィオナは宇宙の中に浮かんでいるのだった。星と一緒になって、寝静まった青い惑星を眺めている…。
フィオナは瞳を閉じた。大宇宙に身を委ねるように、天を仰いで。
フィオナの魂は夜空に溶けた。フィオナが夜空に、夜空がフィオナになる瞬間…。宇宙の雄大さを、地球の優しさを余すところ無く感じることができる空間…。
フィオナは、こうして夜空に浮かぶ時間を愛していた。生まれながら孤独な彼女にとって、夜空だけが変わらず優しい場所だった。よく、こうして夜空に浮かんだ…。フィオナの脳裏を、ふと、暖かな記憶のかけらが横切っては、すぐ深い闇に呑み込まれていった。閉じた瞼がかすかに震えた。箒を握る細い手が、記憶のかけらを闇に沈めようと力を込めた。
再び、穏やかな大気がフィオナの心を包み込んだ。何て、優しい…。
フィオナは歌を歌おうとした。誰かに教わったわけでもない、フィオナ自身聞いたことも無い、だが、魂が知っている歌・・・。ずっと心の奥底から、自然と口をついて流れてくる旋律……
「綺麗な夜空だ。」
フィオナの意識は飛び起きた。地上から十数メートルも上空の夜空で、突然耳元でした何者かの声に、乙女の全神経は通電したのだ。
勢い良く振り向いた先に人間の顔を認めて、大きくフィオナのバランスは崩れた。心臓がつぶれるような悲鳴をあげ、箒を見失った体はまっ逆さまに大地めがけて舞った。その姿はあたかも純白の蝶のようで、煌めく夜空を背景に、残酷なまでも美しく、少女の体は落下していく。
だが、館の屋根に届くか届かないかの所で、白い蝶は再び空へと舞い上がった。
ムウはかすかに額に汗をにじませながら、念力でフィオナの体を箒へと座らせた。驚きと恐怖で強張った白い顔を覗き込むと、申し訳なさそうに眉をひそめた。
「――すみません…。驚かせてしまいましたね。あなたが上がっていくのが見えたものですから… 大丈夫ですか?」
フィオナは、激しい胸の鼓動ががんがんと頭を打つのを止めようも無く、ただ、突如現れたムウの顔を丸い目で見つめた。やがて、初めて息をするかのように勢い良く息を吸い込むと、心臓が飛び出すのを抑えようと口を閉じてこっくりと頷いた。
それを見たムウは、胸を撫で下ろしてそっと微笑んだ。
瞬間、フィオナの魂はその瞳の中へと吸い込まれた。
ムウの小宇宙と、フィオナの中のムウの小宇宙が共鳴を起こしたのだ。今までの恐怖心は跡形も無く失せ、後には一片の陰りも無い安らぎが、フィオナの胸を包み込んだ。ムウという宇宙の中に、フィオナは膝を抱えてゆったりと浮かんでいる――
暫しの間、2人はそうやって見つめあっていた。フィオナは全てを預けたような目でムウを仰いでいる。星明りを受けて、燦々たる光を放つ情熱の瞳に、さすがのムウも直視していられなくなったのだろう、少し気まずそうに目をそらすと、そっとフィオナの隣に位置を変えた。
銀河の海に、2つの影が浮かび上がった。
「…ジャミールの夜空はきれい…。」
しんしんとした静寂を破って、フィオナが澄み切った大気のような声でつぶやいた。ムウはその横顔にちらと目をやって、フィオナと共に星々を仰いだ。
「ええ…。ここは標高が高いですからね。地上からでは見えない星もたくさん見えます。」
「ムウ様、――私、何だかやっと、ジャミールが好きになりました。」
ちょっとはにかんだ笑みを浮かべ、フィオナは輝く山脈に目を落とした。
「これまでは… 怒らないでくださいね、でも、文化とか環境とか、あまりにも違いすぎたから…。それに…、………あまり、……口をきいてくださらなかったから…。」
そう言うと、フィオナは顔をそむけた。主人に対して無礼なことを言ったと思ったからだ。
「すみません・・・。差し出がましいことを」
ムウは優しく目を細めて首を横に振った。
「いいえ…。私も配慮が足りませんでした。あなたが余計な気を使いすぎないようにと、貴鬼に構いすぎないよう言いつけておいたのです。そして、私の態度も冷たかった…。だが、最近あなたは元気が無かった。もっと早く、こうした機会を作るべきでしたね。」
「そんな…。申し訳ありません、使用人でありながら、私…。」
「フィオナ…。」 ムウは諭すような目をしてフィオナに向き直った。
「どうやらあなたは勘違いをしているようだ…。私はあなたを使用人として雇っているのではないのですよ。あなたは私や貴鬼と同様、この館の住人なのです。だから…。」
伏せていた目をフィオナは上げた。再び、包み込むような暖かい小宇宙を、フィオナはムウの瞳に見た。
「だから… どうか気兼ねすることなく生活を送って欲しい…。」
そう言うと、そっとムウは微笑み、髪をたなびかせながらまたたく星々に目を向けた。フィオナはその横顔を、半ば探るように、そしてどこか切なそうに見つめた。
その時、2人の合間を縫って、一筋の流星が遥か彼方へと流れていった。
「綺麗…。」 そう囁いたフィオナの唇から、チラと白い歯が覗く。
「ジャミールの星空は、これまで見てきたどんな星空よりもきれい…。…一人で眺めた、どんな星空よりも…。」
それからの生活は打って変わって、フィオナにとってもムウや貴鬼にとっても、明るく楽しいものになった。それまでむやみにフィオナに干渉しないよう言いつけられていた貴鬼も、それが解消となってからは事あるごとにフィオナにまとわりついた。館には生活感があふれ、夜灯る明かりからは絶えず笑い声が聞こえた。
ムウは、相変わらず滅多に姿を見せることはなく、食事を抜くこともしばしばあったが、フィオナの不安を誘うことはもはやなかった。あの夜以来――。
あれから時々、フィオナとムウは夜に密会をした。密会と言っても単に貴鬼が知らないだけで、特に何かあるわけではない。待ち合わせるでもなく、自然な流れで二人夜空に浮かぶのだった。そして、それはフィオナにとって愛すべき時間となった。これまで、一人で星を眺めることだけを心の拠り所にしてきた以上に。
しかし同時に、とりとめもない恐怖も襲ってくるのだった。過去と、自分の行く末を思う。その時、決まってフィオナはムウについて考えた。嫌いでは決して無い。信頼できる人、だ。
だが、フィオナの中では、遠い存在であり続け、そして最後まで遠い存在として去っていったカミュの方が、むしろ安心して慕うことができる人だった。ムウは・・・ そう思うと、近すぎる分怖くなる。この時間が、歴史が繰り返すように、いつかはあの時の様になるのではないかと。今の生活に心を許してしまえば、そうなった時にどんなに・・・。だからこそ、ムウに感じる安らぎを憎く思う。それを求めて、半ば中毒者のように夜空に向かう自分を恐ろしく思う。
フィオナは、男性が自分をどう思うかを痛いほど知り尽くしている。魔女として生を受けたことが意図するものでないように、男性を心酔させる魔性の力を抑えることは、いくら望んでも叶わぬ事だった。
ムウも・・・。黄金聖闘士は聖闘士の中でも最も誇り高く、全ての感情を超越している人達だと聞いていた。少なくとも、カミュはそうだった・・・。しかし、十二宮で食事を運んだ時、各宮の黄金聖闘士から投げかけられる視線は、他の男性のものと何ら変わりは無かった。最もムウと、カミュ以外は視線を合わせることは無かったが。しかし、16年そういった視線を受け続けた体は、相手の目を見なくても、その視線を敏感に感じ取ることができる。
あの時―― 白羊宮に食事を持っていった時。ムウもまた、自分の姿に目を見張ったことを知っている。主人として仕えている今、そのムウが自分をどう思っているのか・・・。何故命を救い、フィオナを引き取ったのか。その原動力が、自分が最も忌み嫌う所にあるかもしれないと思うと、フィオナはにわかにムウに疑念を抱かざるを得なかった。
いや ――・・・・。
フィオナは枕に顔をうずめた。そうじゃない。私が恐れているのは、疑っているのはムウでも、世の男性でも誰でもない。私自身なのだ。運命に翻弄され続けてきた、このフィオナなのだ。
フィオナは震える胸を抱え込んだ。いっそ、ジャミールを去ろうかと思う。そうすれば、こんな夜を過ごさなくて済む・・・。何にもとらわれることなく、孤独だけを住処として流れる方がどんなに楽か・・・。だが、貴鬼の温もりがそうさせない。ムウの包み込むような小宇宙が、捕らえて放さない。
「・・・・・・変わらないと・・・ 終わりは無いと、言ってください・・・・ムウ様・・・」
熱い雫が枕を濡らした。やがて、フィオナは静かに目を閉じた。日が昇ればまた、貴鬼と笑い合う一日が始まる――。
次へ:id:witchsanctuary:20120725
ジャミール編2
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「貴鬼!!」
ケタケタと高い笑い声を上げて、貴鬼はフィオナの箒にまたがり宙を飛び回った。正確に言えば、テレキネシスで箒を飛ばしているのだ。その上に貴鬼は危なっかしく乗っている。
「やめなさい、貴鬼! 怪我をしますよ!」
フィオナがいくら注意しても、貴鬼は一向に降りてくる素振りが無い。ムウにいいつけると言っても効果は無かった。貴鬼の姿を追って館の方へ目をやると、そのムウが最上階から顔を出している。
「貴鬼。いたずらが過ぎますよ。フィオナが困っているでしょう。」
ムウに叱られると、風船がしぼんだように貴鬼はしょぼくれた。そして、ぎこちなく下降してくる。やがて地面に足がつこうとした刹那、貴鬼は箒から手を放した。
「駄目ッ!!」
フィオナが叫ぶや否や、箒は手を放した貴鬼を乗せたまま急上昇して、貴鬼を空中に振り飛ばした。
フィオナと貴鬼の悲鳴が、ヒマラヤの空に木霊した。だが、目を覆うことは無い。貴鬼は宙に浮かぶことができるし、何よりも、その前にムウが念力で止めていた。
やがてゆっくりと貴鬼が地面へ降りてくると、すっかり血の気の失せたフィオナが駆け寄った。貴鬼の無事を確かめると涙を浮かべた目に怒りを込め、気まずそうに視線を落とす貴鬼の顔を覗き込んだ。
「今までに何度も、私の箒に乗ってはいけないと言ったでしょう。危ないからそう言っていたのよ・・・!」
闘牛の様に空中を旋回していた箒が、ゆっくりとフィオナの側に降りてきて、命が尽きたように地面に転がり落ちた。それと同時にムウが姿を現した。
「貴鬼。この箒には魔力がかかっているのですよ。――その程度も見抜けないとは、まだ修行が足らないようですね。」
「魔力が・・・?」 貴鬼は箒を覗き込んだ。
「嘘だろ? だって、フィオナは空飛ぶ以外に魔法は使えないって言ってたじゃないか。」
フィオナは大切そうに箒を胸に抱え込んだ。
「私は、…魔女は、自分の箒に魔法をかけるの。もちろん、誰かに教わったわけではないけど…。でも、魔力を注いで飛ばす箒には、自然と使い手の力が宿るわ。」
貴鬼は柄の太い箒を覗き込んだ。言われてみれば、何かしらの魂が宿っているように見える。
「箒は主人に従い、主人だけを乗り手とするの。だから、例えテレキネシスのような別の力を使っても、箒は精一杯抗うわ。だから、今のように手を離した途端に、乗り手を振り払うの。だから、いい、貴鬼。もう、箒に乗らないって約束して。」
貴鬼はぽかんと話を聞いていたが、やがて恨めしそうに箒を睨んだ。
「じゃあ、最後まで力を抜かなければいいんじゃないか。」
「貴鬼。」 ムウが顔をしかめると、慌てて貴鬼は跳ね起きた。
「大丈夫だよ! そんな箒、もう頼まれたって乗ってやるもんか。へっへーんだ、べーっ!」
「まっ」 フィオナはあきれて貴鬼の姿を見送った。ムウも苦笑に近い表情をした。
「――貴鬼はあの通りいたずらが好きで、時折過ぎることがあるのです。それでも以前は素直に言うことを聞いていたものだが、フィオナ、あなたには甘えが出ているようだ。」
フィオナは立ち上がると、愉快そうにクスリと笑った。
「あの子はまだ小さいんですもの。あの位元気が無いと。それに、素直でいい子ですわ。」
ムウはフィオナの顔を見下ろして、静かに笑みを浮かべた。
「上がりましょうか。」
ほろ苦いお茶をコップに注いで、フィオナはムウに差し出した。昼間から、こうしてムウと2人でお茶を飲むなど初めてのことだ。
フィオナは慣れた手つきで茶菓子を盛り付けると、遠慮がちにムウの向かいに座り込んだ。暫く2人は無言でお茶をすすっていたが、先に沈黙を破ったのは、意外にもムウだった。
「ここでの暮らしは慣れましたか?」
フィオナはお茶を机において、少し、ムウの顔から視線を落として答えた。
「はい、お陰様で…。ここへ来て半月余り経ちますけど、毎日が充実していて楽しいです、本当に…。」
「そうですか、それはよかった…。」
ムウは再びコップに口をつけようとしたが、また沈黙が訪れるのを悟って飲むのをやめた。
「先程… あなたは貴鬼がまだ小さいと、だからいたずらや甘えも当然だと、言いましたね…。」
「え、ええ…。」
「だがフィオナ、聖闘士を目指す者にとって、そのような感情は妨げにしかならないのです。本来、聖闘士は死と隣り合わせの修行にひたすら励むもの…。地上の平和を守るためには、子供に与えられるべき当然の権利を一切剥奪して強くならなくてはなりません。…私は正直、貴鬼を甘やかせすぎかと思っている。特にフィオナ、あなたに関しては…。」
さっと、フィオナの顔から血の気が失せた。
「…申し訳ございません…。知らずとは言え、身勝手な意見を…。」
「いえ… 違うのです。だからこそ、あなたには感謝しているのです…。」
ムウの意外な言葉に、フィオナは目を丸くして顔を上げた。ムウはお茶に目を落としたまま、言葉を吟味するようにゆっくりとした口調で続けた。
「確かに… 聖闘士の修行の場に、女性の存在はふさわしくないかもしれない。甘えを招きますからね…。だが、私は貴鬼に、聖闘士がたどるような冷徹な道を強いたくはないのです。貴鬼にはもっと、人間として多くの可能性を秘めた聖闘士に育って欲しい。当然、強くなることは必要でしょう。だがそのために、人の温もりを遮断することが、果たして適切なのか疑問に思うのです。
地上の平和を守るべき聖闘士が、守るべきものを肌で知らずに務めを果たせるとは思えない。むしろ、戦いの中でしか己を保てないようであれば、地上に平和が訪れることは無いでしょう。
…だから、貴鬼にはあえて、いたずらや甘えなどの自然な欲求を認めてあげたい。義務に縛られるのではなく、人間として、もっといろんな事に触れさせたい。自由に成長して欲しいのです。だから――…」
ムウはそっと顔を上げた。その瞳に、赤い花の姿が浮かび上がった。
「フィオナ…。あなたには貴鬼の心のより所であって欲しい。暖かく包み込んであげるような存在であって欲しいのです。勝手にこのような地に連れてきて、勝手な言い分かもしれませんが…。」
「ムウ様…。」
「あなたのような若い人が、このような人里からかけ離れた地に閉じこもるのは好ましいことではありません。以前にも言ったように、あなたは使用人ではない。留まるも去るも、あなたの自由だ。だが… 少しだけでいい、このジャミールの地での暮らしを、長い目で考えてくれれば私も幸いです…。貴鬼の成長を見守るつもりで…。」
ムウはフィオナの顔色を窺った。彼自身、なぜ、こういう話の展開になったのか意外だったのである。
確かに、貴鬼への思いは真実だし、フィオナに留まっていて欲しいという願いは、常にムウの心を突いて止まなかった。だが、まさか面と向かって依頼するなどとは夢にも思わなかったのである。何か理性を超えたものが、彼の口から意図しない言葉を言わしめたのだった。
何千もの言葉が空回りする喉の奥で、心臓がゆっくりと、重苦しく鼓動を打っているのがわかる。ムウは思わず膝を握りしめた。何故、このようなことを言ったのか?何故…。
いかなる時も冷静に振舞っている彼でも、フィオナの前ではそうはいかなかった。黄金聖闘士でさえも魅了してしまうほどの魔力を持ったフィオナ――― 夜に2人で星を見る時でも、日常でふと、家事をするフィオナの姿を見かける時でも、そして今でも…
常にムウは、聖闘士として誇る理性をフィオナにかき乱されるような感覚を覚えていた。だが、もちろんその精神は脆弱ではない。常人を超えた体感に目覚めている以上、幾重にも張られた理性の壁がムウを冷静に保たせた。彼を思慮深くさせた。
だが―― 今だけは…。
貴鬼への思いを語るという一応の段取りは踏んだものの、理性よりも情熱の方が先に出るという形になってしまった。ムウは知らないのである。どのような悟りを開いた超人でも、最後まで彼らを苛ませたのが何だったのかを。そして、それは決して忌むべきものではなく、超えるものでもなく、人間が人間である証として持ち得るもの、どんな説教よりも、真の価値があるものだと言う事を。
ムウは、とうに無くしたと思っていた動揺を抑えきれずにいた。フィオナの顔を直視できない。父親の叱りを受ける子供のように、ただ背を丸くしてうつむくしかできないのだ。
ふと、視界の端に写るフィオナの顔が曇った。しまった…。ムウは尚更のこと胸が寒くなる思いがした。愚かだった。共に貴鬼の成長を見守って欲しいなどと、他意があるとしか捉えられない。
だが、フィオナの口から出た言葉は、ムウの予想に反したものだった。
「…いいんですか…。」
驚いてムウは顔を上げた。見ると、かすかに紅潮したフィオナの顔には涙さえ浮かんでいる。震えを抑えるように、しかと胸を抑えながら、けなげに唇をかんで嗚咽をこらえているのである。
「いい…んですか…? この先―― いても…。ずっと…… 留まっていても。――お許しいただけるのですか…?」
突然、はじけたようにフィオナは両手で顔を覆った。その細い体に余すところ無く蓄積されてきた、深い孤独と絶望が、ついに溢れ出たのである。声なき声で、しかし、それらを全て吐き出すようにフィオナは泣いた。ようやく、彼女の救われぬ運命も休まる時が来たのである。
ムウは暫く唖然として、花が露にぬれる様を見つめていたが、再び意図せずに、いや、今度はムウ自身の意識も加わって、勢い良く立ち上がると、机越しにフィオナの薄い肩を掴んだ。フィオナは気付かないのか、構う気配が無い。だが、ムウはその手に力を込めて、熱を含んだ口調で語りかけた。
「もちろんです… フィオナ…。あなたが望むのならば、あなたさえいいのなら、この先、ずっといてください。――貴鬼が巣立った後でも、ずっと…。」
ジャミールで暮らし始めて、一ヶ月近くが経とうとしていた。何の変化も無い、至って単調な生活が続いたが、誰も退屈を覚えた様子は無い。実際、3人にとって、この日々がこれまでの人生の中で最も充実していた。
朝、広大な山脈に、長い影を落としながら日が昇り始めると、ムウの館でもあたたかい煙が調理場から立ち昇る。一点の曇りも無い青空が広がる頃には、フィオナと貴鬼が談笑する姿が見られた。やがて、空に青い月が顔を出すと、貴鬼のおしゃべりが明かりと共に窓から漏れた。そして、数多の星座がジャミールに降り注ぐと、2つの影が、月明かりにその輪郭を浮かび上がらせた。
標高の高い山地は天候の変化が著しい。遥か遠方の頂まで見渡せると思った次の瞬間には、果てしない雲海が山々を覆い尽くすものだった。しかし、フィオナが来てからというもの、ずっと晴天続きだ。にわかに気温が上昇した気さえする。
いや、実際、この地の自然の厳しさは和らいでいたのである。
「ああっ!!? ムウ様ああぁぁ!!」
館から数キロ離れた岩場で修行に励んでいた貴鬼が、突然声を上げた。それまで岩に腰掛けていたムウが何事かと貴鬼の隣に立つと、貴鬼が覗き込む先には一輪の花が咲いていた。ムウもまた、驚いて花を覗き込んだ。
「こんな所に花が・・・ いや、植物が根を張るとは・・・。」
「すごいや! おいら、ジャミールで花なんてはじめて見た! そうだ、フィオナに摘んでいってあげよう――」
フィオナは館の傍らで、洗い物を干していた。不意に傍らに現れた貴鬼が、いたずらっぽそうに笑いを浮かべているのを見て、フィオナも微笑んだ。
「何を後に隠し持っているの?」
「へへへ、何だと思う? 当ててごらんよ。」
フィオナは一応考えるふりをしてから、困った顔をして首を横に振った。貴鬼はそれを見てにっと笑い、そして得意げに手をフィオナに突き出した。覗き込むと、肉付きのいい手には、黄色い、小さな花が握られている。
「まあ・・・。」
「先の岩場で咲いていたんだよ。珍しいんだぞ、ジャミールには草なんて生えないんだから。これ、フィオナにあげるよ。」
フィオナのこぼれるような笑顔を貴鬼は頭に描いていたが、その眉が曇ったのを見て驚いた。フィオナはそっと貴鬼の手ごと花を包むと、優しく貴鬼の顔を覗き込んだ。
「ありがとう。貴鬼の気持ちは嬉しいわ。でも、このお花は土へ返してあげましょう。お花だって、生きているんですもの・・・。無下に摘み取ったりしたら、可哀想だわ。」
「あ・・・」 貴鬼は手の中の花を見つめて頭を垂れた。その顔を、フィオナは優しく撫でて箒をとりに館に入った。
「ねえ… 水に活けてやらないのかい?」
館の側で、花を埋めようと土を掘り返すフィオナに貴鬼はおずおずと尋ねた。すっかり元気は失せ、叱られた子供のようにしょぼくれている。フィオナはその顔を見上げると、そっと優しく微笑んだ。
「そうね、水に活けた方が飾りにもなるし、花も枯れることは無いわ。でも、やっぱり生まれた所で、自分の力で生きることが花にとっては幸せなんじゃないかしら。太陽の光を浴びて、大地から栄養をもらって――」
茎を埋め終わると、フィオナは立ち上がって貴鬼を抱き寄せた。貴鬼もようやく笑顔を見せて、太陽へ向かって背伸びする花を眩しそうに覗き込んだ。
「どんなに美しいものも、摘み取って自分のものにする権利なんて誰にも無いわ・・・。そう、例え神にだって・・・。」
ここは天国か――――
一面に花畑が広がっている。陽射しは柔らかく空は澄み切っていて、地上のどこかだとは思えない。そう、おそらくは可憐な妖精が飛び交う、神々の時代の風景だろう。
そこに、ムウはいた。甘い香りを放つ花の海を歩いている。ふと目をやると、向こうの方に、一段と美しい輝きを放つ花を見つけた。
フィオナだ。たくさんの花に囲まれて、まるで天女の様に光り輝いている――
フィオナはやがてムウに気づき、静かに微笑んだ。ムウもまた笑みを浮かべ、フィオナの方へ歩み寄ろうとした。
その途端、踏みしめた足元の花が一斉に朽ち果てた。驚く暇もなく、一瞬にして一面の花畑は死の世界へと変貌した。咲き乱れていた花々はどこへ行ったのか、辺り一面には黒いつたがひしめき、空も漆黒の闇に支配されている。
しかし、フィオナの周りだけは依然として光に包まれていた。純白の花々は、フィオナの気を惹こうと花びらを舞わせ、フィオナは夢中になって花を摘み取っている。
次の瞬間、その背後に巨大な闇が迫った。ムウは駆け出した。力の限り地を蹴った。しかし、フィオナとの距離は縮まらない。
見る間に、フィオナの摘んだ純白の花が黄色に変色した。
―――フィオナッッ!!!
闇をつんざく悲鳴にムウは飛び起きた。暫くは激しい息をついていたが、夢だとわかると瞳を閉じて動悸を静めた。
――何だったのだ、今の夢は・・・? 窓の外を見ると、寝る前にフィオナと眺めた月が、明るみ始めた空へ溶けかかっている。
ムウはその空に目を凝らした。何か暗い影が、この地上を覆おうとしていた―――
ハーデス編へ:id:witchsanctuary:20120723