遥か西方の果てに4
前へ:id:witchsanctuary:20120706
フィオナは立ち上がった。等身大の鏡の中の、花嫁姿の自分に見入りながら。そして、静かにつぶやいた。
「―――…ペルセフォーネ…?」
不思議な感じだ。鏡の中の自分は微笑んでなどいないのに、その姿に重なって、ゆったりとした髪のペルセフォーネが優しく笑いかけているのが見える。フィオナは、目の前の鏡が自分の魂を映しているような、また、時折浮かぶ人影が自分そのものであるような、妙な感覚に襲われた。
フィオナは鏡に歩み寄って、純白に煌めく自分の姿に手をあてがった。ふと、暖かな風が鏡から吹き込んできたような気がした。フィオナは、その穏やかな風に、それまでの混乱や悲しみが消えていくのを感じた。まるで母の胎内に帰ったような、魂の故郷に帰ったような感じがして、かすかに目を細めた。
(…あなたは、ペルセフォーネなの…?)
フィオナの姿に重なるペルセフォーネは、ただ微笑むばかりだ。フィオナはその時、エリュシオンで目覚める前に見た、不思議な夢を思い出した。そうだ…。あれは、ペルセフォーネだった…。遥か魂の奥底で、フィオナは自分そのものであるペルセフォーネと会っていたのだ。そして、彼女は何かを訴えていた。フィオナを安心させようと、慰めの言葉をかけていた。
(お願い…。話して。教えて…! どうすればいいのかを。私を… 導いて、ペルセフォーネ…!)
コツンと、鏡の自分と額を小突き合わせてフィオナは祈った。その頬を、一粒二粒涙が伝った。 (お願い…!) 決して天上の神にではない、自分の中にいるはずの女神に、フィオナは懇願した。 (お願い…、ペルセフォーネ。私はあの人を死なせたくない!もう… 失いたくないの…!) 胸の中のムウが、静かにフィオナに背を向けて、髪をたなびかせながら遠くに去っていく光景が脳裏に浮かんだ。フィオナはその場に崩れ落ちてしまいたいような衝動に駆られて、ついに嗚咽を漏らした。
「お…… お願い、ペルセフォーネ…! 心を開いて…! 声を、聞かせて……!!」
フィオナの頬から伝い落ちた涙が、音を立てて床にこぼれた。涙でにじむ視界の端に、その雫が赤く変色したのを見て、フィオナは目を見開いた。流れるようなドレスの傍らに、フィオナの落とした涙が、真紅の花びらと化して床に張り付いている。フィオナはただ目を丸くしながら、その花びらを手で掬った。平べったい、手触りのいい花びらだった。次に頬を伝った涙が床に落ちるのを感じて、再びフィオナは床に目をやった。だが、もはや床には水の跡しかない。一体、これはどういうことなのか…。
困惑するフィオナの前に、ついに女神は降臨した。
「はっ…!?」
フィオナはあまりの驚きに、ドレスを着たまま床に腰をついた。それもそのはず、うずくまっているはずの自分の姿が、鏡の中ではたなびく髪のペルセフォーネになっていたからだ。フィオナは幻覚かと、顔を覆うヴェールをたくしあげた。だがそこには、紛れも無いペルセフォーネが佇んでいる。
「ペ…… ペルセ…フォーネ…?」
ペルセフォーネは、林檎色の頬を優しく持ち上げた。その若草色の瞳といい、今、鏡の中はさわやかな春の風で満たされている。
フィオナはドレスの裾につかえながら立ち上がった。手には、赤い花びらをしかと握り締めて。
ペルセフォーネの涼やかな口元が動いたかと思うと、大地の讃唱に似た美しい旋律が流れてきた。
―――行きなさい、彼の元へ…。
フィオナは、瞳をあげてペルセフォーネの顔を仰いだ。母を見るように。また、自分の決意を確かめるように。鏡の中の自分は、迷いの底で根付いていた強い意志を、瞳にたたえて笑みを浮かべている。だが、ふとフィオナの眉が曇った。
「でも… でも、そうしたら、ペルセフォーネ…。あなたの想いは…。そうしたら、ハーデスは…。」
―――いいのです。 ペルセフォーネの微笑みは変わらない。
―――いいのです…。わたくしたちに、気兼ねをしないで…。あなたは、わたくしペルセフォーネではなく、フィオナではありませんか…。あなたはフィオナとして生を受け、フィオナとして生き、そして、フィオナとして彼を愛したはずです。そして彼も、フィオナであるあなたを求めている。何を迷うことがありましょう。ペルセフォーネとハーデスのことは、気の遠くなるほど昔のことなのです。大切なのは、今、この時代に生きている者たちの幸せなのですから…。
フィオナは手の花びらに目を落とした。 「でも… でも、一体どうやって…? どうやって、地上に――」
真紅の花びらは不思議なオーラを放っている。フィオナは、その目もくらむような真紅の奥底に、何かを見出した。それは、とても絶大で、遥か昔からフィオナの中にずっと宿っている力…
―――そうです。あなたの… わたくしたちの肉体には、ハーデスが授けた大いなる力が宿っているのです。そしてその力は、…恐ろしいことに、タナトスやヒュプノスを凌ぎ、ハーデスにでさえ、決して引けをとることのない威力を秘めているのです。…ハーデスは、そのような力をわたくしたちに与えたのです…。彼は疑っていません。わたくしが… このペルセフォーネが、完璧なる冥界の女王として覚醒するだろうと言うことを。そこには何も、障害は生じないだろうと言うことを。
「でも… 私は残った…。なぜ…?」
―――あなたならわかるでしょう…。この身体の隅々にまで満ちている、聖なる者の小宇宙です。
フィオナは思わず声をあげた。瞬間、胸が温かくなるのを感じた。そうだ…。フィオナは思い出した。自分の肉体に広がる、雄大な宇宙を。この世で最も慈しむべき、限りなくフィオナに安らぎを与えてくれる人の小宇宙…。
「ムウ…様……。」
フィオナは、花びらごと胸を抱え込んで笑みを浮かべた。その頬を、暖かい雫が伝った。
―――そう…。彼の小宇宙が、彼の深い愛が、あなたをハーデスから護ったのです。そして、あなたの彼を想う強い願いが…。
愛とは何よりも尊いもの。真実の愛の前では、いかに生死を司る神の力といえども、効力を失ってしまうものなのです。そして、そのおかげでわたくしも、本来の姿で覚醒することが出来たのです…。ありがとう。わたくしは誓いましょう。あなた方の愛のために力を貸そうと。そのためには、…ハーデスも見限ろうと…。
「で… でも、ペルセフォーネ、本当に… いいのですか。だって、ハーデスはあなたのために地上を…。」
―――…それは、彼が地上を欲する理由の一つに過ぎません…。それに――… わたくしは、あえて彼を止めなくてはならないのです。もちろん、あなたや地上のためにも…。しかし、とても重要なことなのです。彼は、目の前の野望に先を見失っている…。アテナを抑え、他の神が地上を支配すると言うことは、どのような事態を招くのか…。彼は忘れているのです。
フィオナは身を乗り出した。ペルセフォーネは厳しく眉をひそめて目を閉じている。女神はうすく瞳を開くと、どうなるのか問いただすフィオナを見つめた。語るべきかどうか、フィオナの目を見て見極めているのだ。だが… このまま隠し通すことはできないだろう。両者の魂が、一つの意思を共有している今となっては。ペルセフォーネは静かに口を開いた。
―――宇宙の均衡が崩れると言うことです…。
「宇宙の…均衡?」
―――この世界は地上をはさんで、天界のゼウス、海界のポセイドン、冥界のハーデスの三者が、絶妙なバランスを保ってきたからこそ維持されてきたのです。そのうちの誰かが一線を越えてしまうことになれば、たちまち世界の均衡は大きく崩れる事になるでしょう。
かつてオリュンポスの神々が築いた、黄金の時代、銀の時代、青銅、英雄… そして現在の鉄の時代と言われる、いわゆる人間たちの時代は終わりを迎え、世界は再び、神々による戦争の時代へと突入するでしょう。ハーデスが地上を抑えれば、海皇ポセイドンと大神ゼウス率いるオリュンポス軍が地上に降臨し、カオスから生まれたこの世界は、天、地、海、地下の分別を失い、再び混沌へと帰すかもしれません。そうなれば、一度全てが滅びるか―― それとも、数億年と続いてきた世界と、全く違う形の宇宙が誕生するか…。
…大神ゼウスは、その事態を好ましく思っておられません。だから… わたくしはハーデスを止めなくてはならないのです。そのために、わたくしは遥か天上より遣わされたのですから。アテナを勝利に導くために…!
フィオナは思い出した。ジャミールから冥界へと引きずり込まれる刹那、胸を貫いた聖なる雷を。フィオナは驚愕の事実を裏付ける、大いなる大神の力をその魂の奥底に感じ取った―――
フィオナは膝が崩れそうになるのを、蒼白な顔で抑えながら鏡のペルセフォーネを見つめた。慈愛に満ちたペルセフォーネの顔にも、さすがに緊張の色が張り付いている。だが、その意志が固いことを見取ると、フィオナはそっと瞳を閉じた。
「私が… その使命を果たすのですね。ゼウスの勅命に従い、アテナに力を貸すのですね。…この闇の力を持って。」
ペルセフォーネは静かに首を振った。
―――わたくしが、です。あなたは、フィオナ…。あなたは、ムウの元へ帰ることだけを考えていればいい。さあ…、時が来たら、わたくしにその身を明け渡してくれませんか。後は、全てわたくしに任せてください。必ず、あなたとムウへの誓いは守りましょう。
「…嫌です…。」
ペルセフォーネは耳を疑った。自分の分身でもあるフィオナの口から、初めて拒絶する言葉が出たからだ。そして、共有している一つの意思が、強い決意に支配されていくのをペルセフォーネは感じた。
「私が… 私が、その使命を請け負います…! いいえ、私たちは、はじめから一つのはずではありませんか? あなたの記憶は私の記憶…。そして、あなたの覚悟も私の覚悟なのです! ――言葉で語らずとも、ペルセフォーネ、私の決意はあなたに伝わっているはずでしょう。あなたが受けた使命は、私が果たします…! ムウ様との未来のために闘う、フィオナとして! 天界からの命だけではなく、大地を愛する豊穣の女神ペルセフォーネとして!」
―――フィオナ…。 ペルセフォーネは白い花嫁を見下ろした。
―――でも… でも、あなたは神ではない…。人間の姿を借りて地上に降臨したアテナとは違い、あなたは地上に生まれた人の子なのです…。この使命は人間の肩には重すぎる。神の行いは、神自身が…
「ムウ様も、…アテナの聖闘士は、人間ではありませんか…。アテナを守護するのがその使命とは言え、彼らもまた、人間でありながら神に立ち向かおうとしているのです。地上のために。それに――…」
―――フィ、フィオナ…。彼らは…
「それに、私はもう、運命に翻弄されたくないのです…。今度こそ… 今度こそ、私自ら運命に立ち向かいたいのです!わかってもらえますか、ペルセフォーネ…。ご存知なのでしょう…、――真実を。」
ペルセフォーネは、かすかに唇をおののかせた。その瞳に、じんわりと熱い雫が込み上げた。
前聖戦において、敗北を悟ったハーデスは、封印される直前に一つの生命を生み出し、遥か大宇宙へと飛ばした。その生命は数百年後、ハーデスが再び復活を遂げる頃に地上に生を受け、ただ一人の魔女として誕生する運命にあった。かくして、幾星霜もの間宇宙をさ迷い続けた生命は、アテナ降臨の時期を避けて、その数年前に地上に降り立ったのである。
それが、フィオナであった。
ギリシャ北部の小さな村で、フィオナは若夫婦の長女として生を受けた。母の死をもって産み落とされた赤子は、この世のものとも思えぬ輝きを放っていたのだと言う。その人智を超えた神聖さに、村人たちは女神降臨とフィオナを崇めた。父親と村人たちの深い愛に包まれて、幼いフィオナは何不自由なく成長するかに思われた。
だが、古来より魔女にかけられていた神々の呪いは、確実にフィオナを捕らえていたのである。たちまち村には飢餓や疫病が流行し、老人や子供のみならず、男たちまでもが次々と倒れていった。
そんな中、依然として血色を保ち続けるフィオナに、村人たちは彼女が女神などではなく、災いをもたらす魔女であることを悟った。また、神通力に長けていた村の牧師は、幼い魔女の瞳に、やがて地上を覆い尽くすだろう深い闇を見出したのである。
突如村を襲った飢饉が魔女の呪いであると確信した村人たちは、それまで崇拝の対称にしていたのを一転して、神の怒りを招く異端者としてフィオナ親子を裁判にかけた。その裁判とは言うまでもなく魔女狩りであり、最後まで娘をかばい続けた若き父親と、4歳という幼さのフィオナは、人間たちの手によって火刑に処された。
だが、現代に魔女狩りが甦ったという事実を知るものは、もはや1人としていない。災いの根源である魔女を絶ったはずの村人たちは、今度は魔女を創り出した死の神の呪いを受けて、1人残らず滅び去ったからである・・・。
ペルセフォーネは耐え切れず両手で耳を覆った。フィオナは蒼白な顔に真紅の瞳だけを輝かせながら、鏡の女神にすがりついた。
「ハーデスは…、ハーデスは、三度も私を蘇生させたのです…! この冥界に降り立って、あなたという真実に目覚めて… 私は全ての謎を知った! 決して魔女の肉体が不死身なのではなく、私は… ハーデスの妻になるがために、全ての者に平等に与えられるはずの死すらも剥奪され、生かされ続けてきたのだと…!!幾たびも生と死の狭間をさ迷う目にあいながら、人間たちには虐げられ迫害され…!愛する人も失った!!それでも、最後の安らぎである死すらも許されなかったのです!」
悲痛な叫びをあげて、ペルセフォーネは膝をついた。触れてはならない心の傷をえぐられるように、大地の女神は深い悲しみにのた打ち回った。彼女と同様、いや、それ以上に、痛みにうちのめされたフィオナも跪くと、女神の顔を覗き込んで切と訴え続けた。
「でも… でも、ペルセフォーネ。そんな私にも、ようやく救いの手が差し伸べられたのです。…それは、決して神からなどではない、人間の手によって!!その洗礼は、大神ゼウスのものよりも遥かに神聖なものなのです…。生と死…。遥か大宇宙が形成されてから、決してくつがえされることなく繰り返されてきたその摂理に、私は逆らわされた…。死してもなお、甦らせられたこの肉体は、ムウ様の小宇宙によってようやく清められたのです。
私は、そんな彼を失いたくない! そして、あの方との未来は誰かに保障されるものではなく、このフィオナ自ら勝ち取るべきものなのです!私が闘わなければ、例えここでハーデスを抑えても、決して運命は私を放さないでしょう…!わかってもらえますか、ペルセフォーネ。どうか… どうか、私にやらせてください!」
声なき声でむせび泣くペルセフォーネは、地に身を伏せて何度も頷いた。
―――エエ…、エエッ…!! もちろんです、フィオナ…! あなたがそこまで覚悟を決めているのならば、どうしてこのわたくしに止める理由がありましょう!フィオナ…。わ、わたくしは、どう尽くしてもあなたに詫び切れません…! わたくしのために… わたくしの魂を持ったばかりに、ああ…っ!! ゆ、許してください、フィオナッ!!!
フィオナは、ペルセフォーネの手をとろうと鏡に触れた。赤い花びらが、鏡の表面に張り付いてはひらひらと床に落ちた。
「――共に闘いましょう、ペルセフォーネ…。私たちは、一つなのですから…。」
若草色の瞳を、ペルセフォーネはそっと上げた。その瞳に、深い決意に満ちたフィオナの姿が浮かび上がった。
―――ええ…。共に闘いましょう。大地のために…。あなたの、幸せのために…。ですが、フィオナ…。一つだけ願いを聞いてもらえるのならば、彼を… ハーデスを、恨まないで欲しいのです…。
「ペルセフォーネ…。」
―――ハーデスは本来、この世界の何よりも優しい人なのです。それゆえに、誰よりも傷つきやすく、孤独なのです…。だから、彼は愛を求めながら愛を受け入れることが出来なかった。裏切りを恐れるがゆえに、与えることを避けて、奪うことだけを行ってきたのです。だけどどうか、わかってあげてください…。彼はその分、悲しみを心に積み重ね続けてきたのです。誰かに苦を強いるたびに、彼はそれ以上の辛苦に苛まれてきたのです。
ハーデスは… あなたに好き好んで、あのような運命を強いたのではないのでしょう。あなたを生き返らせたのも、彼があなたにしてあげられるせめてもの償いだったはずです…。だ、だから、どうか彼を邪悪なる神と決め付けないでください…。
フィオナは答えなかった。魂を共有している彼女の叫びは、痛いほど伝わってくる。だが… 受け入れるには、あまりにも与えられた過去が凄惨すぎる。
―――わたくしは… わたくしは、そんなハーデスを裏切っていたのです…! ゼウスに遣わされたとはいえ、本来ならば、わたくしに彼を諌める権利などないのですから…。
「――でも…。」 風に遊ぶ花の海を、窓越しにフィオナは見つめた。
「でも…、あなたは彼への償いは十分果たした。アテナやゼウスを敵にまわしてまで、神話の時代、あなたは彼に付き従った。命をかけて彼を守った。それだけで、彼への真意は十分伝わっているはずです。それに… 突如見知らぬ地獄へ連れ去られたあなたが、優しいヒュプノスに救いを求めたのも仕方のないことでしょう…。」
鏡の中ではらはらと零れ落ちるペルセフォーネの涙が、地に触れるたびに、純白の花びらと化して女神を包んだ。フィオナは真紅の花びらをそっとつまみあげた。最愛の養子アドニスが、死後、姿を変えたというアネモネの花びら――…。
その深い紅色がフィオナの瞳と重なった瞬間、ひとひらの花びらは無数となり、高く天に舞い上がった。それが、新雪に降り積もるように純白の花嫁を包むと、床に散らばった花びらの中から、もう一輪の白百合が身を起こした。そして、鏡の中のペルセフォーネも消えた。
――行こう…。サンクチュアリへ。アテナを勝利へ導くために…!!
この世界の中で、…この銀河系の、この大宇宙の中で、最も奥底なるタルタロス―――
今、その混沌たる闇から、一片の花びらが遥か上空へと飛び立っていった。京を超える闇と光を抜け、何万光年と言う果てしない距離を駆けて―― やがて大海原を突き抜け、たどり着く大地。そこが、天と地の狭間、地上であった。
女神ペルセフォーネと共に、真紅のアネモネの花びらと化して神殿を離れたフィオナは、一切の自分の存在を悟られないようにしながらエリュシオンの風に乗った。神殿には、花びらより出でし無垢な花嫁が、フィオナの身代わりとなって王の帰りを待っている。
いたずらな風に弄ばれながら、だが、確実にフィオナは天高く舞い上がっていく。その視界に、広大なエリュシオンが映った。どこまでも広がる、幻想の野―――。地上に生きる者がどんなに儚いか…。神々の暮らす地を見た者は、二度と大地へは戻れまい。
だが、フィオナはその理想郷を蹴った。勢いをつけて、雨風の叩きつける大地へと疾走していく。灰色の欲望や絶望が蠢く地上にでも、いや、そこにこそ、フィオナの求める永遠の楽園は存在するのだ。どのような豪華な宮殿も、どのように彩られた悠久の森も、フィオナの胸に住む神聖なる存在の前には色あせてしまう。この世に生まれた、たった一つに過ぎない命…。大宇宙の時からすれば、またたきすらも長く感じられるほどの、わずかな時間を生きる者…。繰り返されていく自然の営みの、ほんの一つの存在…。
だが、それだけがフィオナの永遠だった。常人を超えた存在とは言え、それでも神々の秤の上の存在に過ぎない、ムウと言う人物…。それだけが、唯一の真実だった。
その元へ、今、フィオナは飛び立っていく。大いなるハーデスの意思が満ちたエリュシオンの境界線を掻い潜ると、真紅の花びらは光よりも速く亜空間を突き抜け、マグマの蠢く地底を疾走し、闇に支配された深海までたどり着いた。
(…見えた! ――サンクチュアリが!!)
宝玉のように煌めく遥か頭上の海面の先に、フィオナは大地の聖域を認めた。海原を司るポセイドンが眠りについている今、冥界の女王は束縛されることなくサンクチュアリの直下に回りこんだ。そして、十二宮へと上っていく…。
瞬間、花びらは激しい衝撃と共に大海原に弾き飛ばされた。銀河を貫く流星のように、赤い花びらは海底へと沈んでいく。
(結界…!! おそらくは、神話の時代より聖域に満ちているアテナの小宇宙か…!)
女神は屈することなく、護るべき大地へと再び上昇した。花びらは海底に射し込む陽光の中で、髪をたなびかせながら舞い上がる女神の姿となって浮かび上がった。聖域の下まで来ると、花びらは群れを成して移動する魚に混じって海面をさ迷った。
(エリュシオンはこの身に満ちたハーデスの力によって抜けられたけれど、アテナの小宇宙ばかりはペルセフォーネの力を持っても、大神ゼウスの力を借りても通り抜けることは難しい…!)
ぴたりと、花びらは浮遊をやめた。その遥か上空には、十二宮の第6の宮、処女宮が聳えている。
(処女宮…。そ、そうだ… あれは乙女座! 乙女座は、わたくしや母デーメテールが預かる星座…! ここからならば…。)
大地の女神の一人娘が、嫁ぎ先の冥界より地上へ戻る春――。その季節の夜空に浮かぶ乙女座の女神ペルセフォーネは、聖なるアテナの結界の中に、針の穴ほどの隙間を作って地上へと飛び上がった。瞬間、処女宮が光に満ちた。
だが…。遥か地底より沸き出でた花びらは地上の光を見ることなく、踵を返したように、颯爽と来た道を引き返していった…。
大海原に、灼熱の地底に、そして、亜空間を突き抜けた悠久の浄土エリュシオンに――― 愛しい者の名を叫ぶフィオナの声が響き渡った。海水が未だその身を濡らしているのか、花びらが通った後には、真珠のような雫が残されていく。フィオナは全身で熱い涙を流しながら、幾度も愛する人の名を叫んでいるのだった。
真紅の花びらは、金色の尾を引いて降下していく。その姿に、ふと、黄金の羊が重なって見えた―――
「ムウ様ああぁぁぁぁぁぁ――――――――ッッッ!!!」
数ヶ月前―― サンクチュアリの白羊宮において、ムウの瞳に見た大宇宙…。心の支えだった人を失い、絶望に駆られるフィオナを抱き起こした、大いなる温もり。ジャミールでは、永遠の孤独からフィオナを解き放ち、絶対な神の手からもその魂を護り通した、何よりも深い愛――
その、全身に満ちたムウの小宇宙が、遠く共鳴したのをフィオナは感じ取ったのだった。
エリュシオンにしてみれば、地上の時間などまばたきほどの間…。ニンフたちがそう言ったように、エリュシオンにてフィオナが悲嘆に暮れている間にも地上では激戦が繰り広げられ、やがてはアテナや聖闘士たちが冥界へ降り立ち、今や、アテナはエリュシオンに、聖闘士たちはエリュシオンへと続く嘆きの壁の前に集結していたのだ。
偉大なるハーデスが与えた力を持っているとは言え、フィオナが三大神に悟られること無くエリュシオンを抜け出せたのも、彼らがアテナや聖闘士たちに気をとられていたからであろう。
黄金の羊に導かれながらフィオナは駆けた。光り輝くエリュシオンを尻目に、暗黒の地獄の果て、ジュデッカへと…。遥か彼方に数体の金色の姿が見え、それらはやがてフィオナの目にくっきりと浮かび上がった。水滴を搾り出すように、また真紅の花びらから大粒の涙が零れ落ちた。
そうしてアネモネの花びらは、アテナの聖闘士たちの元に降り立ったのである。彼らを、エリュシオンへと導くために。アテナと共に闘い、ハーデスを打ち倒すために。
やがて地に伏す乙女座の聖闘士が花びらを見つけると、乙女座を司り、大地に春をもたらす冥界の女王ペルセフォーネ、そして、地上に唯一返り咲いた魔女フィオナは、静かに身を起こした。
大神ゼウスの勅命を果たすために。いや、はぐくむべき大地の実りを護るために…。
そして何よりも、愛のために――――
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