夢のあと2

前へ:id:witchsanctuary:20120703

 誰かに揺さぶられて、フィオナは目を開いた。

 あのまま、貴鬼の食器も洗わずに居眠りをしてしまったのだろうか? 長い夢を見ていたような感覚の中、呆然と振り返った先にあったのは、大きな瞳に不安をたたえた貴鬼の顔だった。今、、フィオナは寝室の窓辺の椅子に腰掛けているのであって、窓の外から見える景色は、もう夕焼けに赤く染まっている。フィオナは突然立ち上がった。

 「大変! 夕食の準備をしなくちゃ!」

 そう言って部屋を出ようとするのを、辛うじて貴鬼が取り押さえた。

 「何言ってるんだい、フィオナ! フィオナは座っていていいんだよ。夕食はおいらが作るから―― サ、座って。」

 「何を――」 無理矢理座らされて、フィオナは不満の色を浮かべた。

 「どうしたの、貴鬼。急に、自分で夕飯を作るだなんて? 私が作らなきゃ。ムウ様がお帰りになるわ。」

 突然、貴鬼は心臓が止まったような呼吸を漏らした。活発そうな口が、今は恐怖に痙攣している。貴鬼は震える瞳でフィオナを凝視した後、ようやく口を開くと突拍子に叫んだ。

 「ムウ様は帰らないよっっ!!」

 貴鬼は、子供とは思えないような腕力でフィオナの肩に掴みかかった。フィオナはあまりの痛さに顔を歪ませながら、いきり立つ少年の顔を呆気にとられて見つめた。貴鬼は激しい発作に肩を揺らして、

 「…いいからっっ!! フィオナは―― フィオナは座っておいでよ! すぐご飯もできるから、ね?」

 「でも――」 フィオナは小首をかしげた。 「帰りは遅いけど、ムウ様、食事はちゃんと取られるわ。」

 月も高くなったころ、扉の開く音と共にムウが帰ってきた。この日も神殿にこもって、アテナや生き残りの聖闘士たちと何やら話しこんでいたらしく、陽を浴びない疲れが額に漂っている。フィオナはムウが聖衣を脱ぐのを手伝った。

 「今日の夕食は、貴鬼のお手製なんですよ。」

 一日の疲れを癒すように、フィオナが明るく話しかける。ムウは薄く笑みを浮かべて、不器用に盛られたおかずを見渡した。

 今日は、お話しができる。フィオナはそう思った。ムウは食事を口に運びながら、恋人の語りに耳を傾けた。

 「見通しは立ちましたの?」

 ムウの疲れ具合をうかがいながらフィオナが問う。ムウは微塵も疎ましくない様子で、

 「ええ。新しい教皇も決定しましたし―― それは後日、皆にアテナから言い渡されます。」

 「まあ、どなたが…?」

 「…別に隠す必要もありませんが、ここで言うのも楽しみが減るでしょう?ただ、納得できる人物ですよ。私ども一同、賛同した人物です。まあ、少なくとも、私たちのジャミール行きがなくなる事はないとだけ言っておきましょう。」

 その言葉に、フィオナはどこか安心したような、またどこか不服そうな表情を浮かべた。

 「だいたい想像はつきますわ―― …でも、……私は、ムウ様が適任かと思いますけど。」

 ムウは微笑んで、

 「ありがとう…。しかし、師が教皇であってもその弟子が後を継ぐとは限りません。現に、13年前は違う人物が抜擢されていましたからね。それに、私もジャミールでの暮らしが長い。どうも、下界での生活は疲れますよ…。まだ、貴鬼の修行も残っていますし…。」

 フィオナは瞳を輝かせた。共に貴鬼の成長を見守る―― これも、ムウと交わした約束の一つだからだ。ムウもそのことに気がついて、食事の手をとめると静かに微笑みかけた。

 これからは、永久に―――

 「早くジャミールへ帰りたい。」 星に願うように、フィオナはささやいた。

 「そしてまた、3人で平和に暮らしたい。笑い合って、夜はあなたと星を見上げ…。」

 「…それが、いつまでも続く…。」

 大きいムウの手が、フィオナの白い手を包んだ。不可思議な引力が、2人を引き寄せ合った。

 (貴鬼がいなくて良かった。) そう思う。そういえば彼はどこに行ったのか?もう寝たのだろうと、フィオナは思った。そう言えば、疲れたと部屋に入って行ったような気がする。だが、そのようなことはどうでもよかった。今は広大な宇宙に身を委ねて、至福の思いに頬をほころばせるだけだ。

 「ムウ様…。」 ムウの広い肩にぐるりと手を回して、自分の中に取り込むように強く抱き寄せる。

 「ずっと、一緒にいてください。もう、決して… あんな別れ方をすることがないように…。」



 からりと晴れたサンクチュアリの昼下がり。いささか不安を残したまま家を後にした貴鬼は、小高い岩山の上に立つ神殿跡で魔鈴と落ち合った。

 「わかったの?」

 未だ家の方を気にしながら、軽く肩で息を切らして貴鬼が問う。魔鈴はややうつむいた仮面の下から、

 「ああ…。星華ちゃんの言うとおりだったよ。以前、彼女は―― フィオナは、ロドリオ村に保護されていたことがあった。何でも…。い、いや、いい。とにかく、星華ちゃんが世話になっていたところが、フィオナがかくまわれていた家と親交があったらしくて…。それで、星華ちゃんも“赤い瞳の娘”の話は聞いていたらしいよ。」

 そうか、と、貴鬼は一息ついた。 「それで、フィオナをサンクチュアリに連れて来た人は?」

 その夜、貴鬼が遅い帰宅をすると、フィオナは1人食卓に腰掛けていた。

 「あら、お帰りなさい貴鬼。今日は遅かったのね。」 にこやかにフィオナが笑いかける。

 貴鬼は幾分すまなそうな顔をして、 「ごめんよ、今日はちょっと、やる事があったものだから…。」

 「待っててね、今、食事を用意するから。貴鬼、手を洗って、ムウ様も呼んできてちょうだい。」

 「えっ!」 ぱっと、貴鬼の頬が明るくなった。 「もう、ムウ様帰ってきてらっしゃるのかい?」

 今夜は、まるでジャミールに戻ったかのようだった。3人で食卓を囲んで、明るい笑い声が行き交う。貴鬼は着手している宮の修復の話を自慢げに語り、フィオナがそれを褒め称え、ムウは静かに笑みを浮かべるのだった。

 「そうだ、今夜は3人で星を見ましょう。」

 そうフィオナが切り出したのは、食事もすんで、貴鬼もそろそろ寝ようかと思っていた頃だった。貴鬼ははじめ、何のことかと目を丸くしたが、実はジャミールにいた頃から2人がそれを習慣にしていたことを知り、その関係に入っていいものか少しどぎまぎしながらも承諾した。明日も早いのであまり遅くなってはいけないと、まだ月も低い時間から3人岩に腰を掛けてみる。

 「見てごらん、あそこに乙女座が見えるよ。」 少し不思議な感じのする雰囲気に、貴鬼がむりやり無邪気に言う。

 「あら、本当…。」 フィオナも、いつもとは違う賑やかさを楽しんで答えた。 「私の星座だわ…。」

 「不思議な感じね。乙女座の月は秋なのに、地上に姿を見せるのは違う季節だなんて…。」

 「でも、乙女座の女神はペルセフォーネなんでしょ? 春の女神だもの。ちっともおかしくないや。」

 フィオナは可笑しそうに微笑んで、 「そうね、でも今は牡羊の月だわ。だから、主役はムウ様――」

 ふと、傍らの人を振り返ったフィオナは笑みを打ち消した。フィオナに寄り添うようにして優しく空を見上げていたムウの姿が、忽然と消えていたからである。

 「どうしたの。フィオナ?」

 「ムウ様が――」 あらぬ方角を向いたフィオナの表情は、貴鬼には見て取れない。

 「いらっしゃらなくなったわ…。」

 貴鬼は、青い瞳をフィオナに注いだ。夜の風に栗色の髪がたなびいて、乙女の哀愁が言葉で語らずとも伝わってくる。貴鬼の小さな胸が、一瞬大きく膨らんだ。フィオナが見ていない影で、貴鬼は溢れ出る涙をぬぐった。

 「どこへ行かれたのかしら…。何も言わずに…。」

 「寝られたんだよ、きっと。」 貴鬼はうつむいて、くぐもった声で答えた。 「疲れてらっしゃったから…。」

 ふわりと、薄手のカーディガンを揺らしてフィオナが立ち上がる。その手を、貴鬼が掴んだ。だが、フィオナは幻覚に捕らわれたように貴鬼の手から逃れると、ふらふらと家の中に入っていってしまった。貴鬼がその後を追う。

 「フィオナ!」 寝室へ入ろうとするフィオナを貴鬼が呼び止める。

 「あ、明日、フィオナも一緒に出かけないかい? フィオナに会ってほしい人がいるんだ!」

 青い月光が射し込む寝室に、ムウは静かに立っているのだった。憂いを含んだ瞳を、ぼんやりとした月明かりに浮かび上がらせながら。その姿に、フィオナは何も尋ねること無く寄り添った。

 何光年もの間大宇宙を旅してきたような、そんな幻想的な気持ちに浸る春の宵に、フィオナは傍らに眠る人の顔を見た。その寝顔は深夜の冷気に溶けてしまいそうなほど穏やかで、美しかった。フィオナはこれも夢ではないのかと、戦いが終わってから常に彼女を苛ませてならない不安を振り払うために、眠りにつく愛しい人の肩に顔をうずめた。たくましい中に、繊細さを兼ねた肉体がそこにはあった。若い命に脈打つ心臓の鼓動を、フィオナは聞いた。雄大な小宇宙に満ちた温もりを、フィオナは確かに全身で感じた。

 (早く、ジャミールへ帰りましょう…。) ムウの横顔を見上げて、フィオナは心で語りかけた。

 一筋の流星が、寝室の窓の四角い夜空を流れていった。



 行ってほしくない。なぜか、フィオナはそう思った。

 だが、既に夢の人は床を離れ、静かに衣服を整えている。まだ、橙色の朝日が部屋をまっすぐ照らし出す時間だった。

 「――ムウ様…。」 フィオナはわずかに体を起こして、自分に背を向ける人へ呼びかけた。

 「今日は… 今日は、留まるわけにはいかないのですか? 戦いが終わってから、休み無しで宮へ通い詰めではありませんか。新しい教皇も決まったのでしょう?もう… あと何を、話し合うことがあるのです。」

 ムウは顔の半分だけをフィオナに向けたっきりで、何も答えなかった。その横顔を、鈍い陽光が照らし出す。その瞳が、あまりにも遠くの世界を見ていることに気がついて、フィオナは思わずベッドから飛び降りた。

 「嫌!!」 

 滑らかなスリップ姿のまま、フィオナは去り行く人にすがりついた。何故かは、フィオナにはわからなかった。ただ、いつの夜かに見た、深い孤独に突き落とされる夢がそのまま現実になりそうで、小刻みな震えが体の底から響いてくるのだ。手の届くところに置いておきたい最愛の人が、無言の恐怖をフィオナに語りかけるのである。

 とめどない涙が、次々とフィオナの頬を伝って落ちた。幸福に満ちた未来の前に、捨てたはずの過去が容赦なくフィオナの胸に突き刺さった。ハーデスが滅び、ペルセフォーネが魂から去った今、完全にフィオナを見失ったはずの残酷な運命が、再び足元へ忍び寄って来るのをフィオナははっきりと感じ取った。

 ついに、冷たい雨に打たれ続けた哀れな花は悲鳴を上げた。

 「もう!! ――もう、ジャミールへ帰りましょう、ムウ様! もう戦いは終わったのです!もう、これ以上あなたがサンクチュアリにいる必要などない! 教皇になるのがあなたでないのなら、もうこんな所へ――」

 力の限り、フィオナはムウの腕を引っ張ると自分の方へ向き直らせた。

 「もう、耐え切れません! もう、嫌なんです、このサンクチュアリという地が!私は数ヶ月前、あなたと共にこの地を去った! 二度と戻ってくるはずは無かった!ここにいると―― 置いてきた多くの過去が私を襲う! …お願いです、ムウ様…。ジャミールへ帰りましょう。貴鬼を起こして、今すぐに…。」

 どこか悲しげなムウの瞳が、その時は一層憂いに満ちていた。彼の唇が動くのを、フィオナは一日千秋の思いで待った。暫くの沈黙の後、ようやくムウの語りがフィオナの意識に入ってくる。

 ムウは微笑んで、

 ――何を、恐れているのです、フィオナ…。私はここにいるではありませんか?毎日ちゃんと帰ってきて、今は共にいられる時間は少ないが、夜はあなたと共にいる…。そして必ず、ジャミールへ帰る日が来る…。

 「嘘よぉ!!」 激しい痛みに抵抗できなくなったフィオナは、そう絶叫すると崩れ落ちてしまった。

 「あなたはいないわ!! 本当のムウ様なら、戦いが終わったあと、すぐジャミールへ帰ってくださったわ!あなたはここにいない! …ムウ様はいない! ムウ様はいないっっ!! いやあぁぁぁぁぁぁーーーーーーーっっっ!!」

 しかし次の瞬間、フィオナは確かな温もりを感じた。その手の平は、求めるものよりずっと小さいけれど、ムウよりも先に、フィオナの魂を抱き起こした温もりだった。広大な、そして掴みどころの無い宇宙とは違って、確かな鼓動と鼓動で繋がりあった、この世のものの温もりだった。

 「貴鬼…。」

 涙でずぶ濡れになった顔を、フィオナは駆けつけた貴鬼に向けた。きつく握られた手だけが、今のフィオナを支える唯一の絆だった。フィオナはやがて、力尽きるように、そして過ちを告白するかのように、ぽつりと言い残した。

 「…ムウ様は… いらっしゃらないのよ、貴鬼…。そして、もう、二度と会うこともできないの……。」

次へ:id:witchsanctuary:20120701