フィオナによせる想い
フィオナによせる想い
サンクチュアリにまつわるフィオナの物語はこれで終結を迎えるわけだが、無論、彼女の人生はこれからも続く。フィオナがどのような人生を歩んでいくのか、そして、彼女がサンクチュアリに至るまで、魔女の運命の下でどのような生き方をしてきたのか――
それらのエピソードは、のちに連ねる機会もあろう。しかし、その舞台と世界観はもはやサンクチュアリにはなく、この「サンクチュアリの 魔女」とは全く別物なのである。
だが、ここで、この作品と切り離すことのできないその後のエピソードについて、少し触れておきたいと思う。それは、彼女が神々に認められる生き方をし、そして死後、見事ムウとの再会を果たすのか―― その疑問である。
何ものにも確証は無い。いかにフィオナという少女が紙の上に創られた存在であるにしても、この世界で名前を与えられた限り彼女の人生は存在するのであって、その1人の人間の運命を、誰かが終始決めてしまうのは好ましくないことである。そのことは、例えばある男の一生を書き連ねた小説があるとしても、作者は彼にとって神なのではなく、彼の人生は多くの読者の人生と共に、そして彼自身と共に、無限に存在し得るからである。
しかしながら、ここでは、ある意味一説という形で、フィオナの魂の行方を記しておこうと思う。
フィオナが一片の曇りも無い、まさに神の如き人生を送ることができるのか―――
それは不可能である。ただ確かめておきたいのは、フィオナが決して何か罪を犯したり、成すことなく年月にその生を浪費していったというわけではなく、その生き様は、賞賛されるべきものだったということだ。
彼女は多くの人々を愛し、また、多くの人から愛された。子も数人儲けた。誰しもが目を奪われる彼女の美しさは、神が与えた先天的なものから、己が築き上げた内面から来る輝きに変貌していった。フィオナは絶えず周りに働きかけ、数多くの幸福を人々にもたらした。いつしか彼女を慕う人々が集い、安らかな老後は、まさに至福の時だったに違いない。
だが、完璧なる人生など、どうしてあり得ようか? 成功は、失敗の上に成り立つものである。それと同様に、フィオナがのちに掴んだ幸福も、その裏には凄惨な過去があり、数多の過ちがあるからなのだ。
フィオナは幾度か行く手を間違い、時には立ち止まって、後ろを振り返ることもあったろう。そうして、気の遠くなるほどの修正を施しながら、人は人生の境地に行き着くのではないだろうか。どんなに極められた栄華も、その奥底に血と汗がなければ幻なのである。
フィオナの生き様を秤にかける神々が、それらの事柄をどのように評価するかは想像の及ぶところではない。しかし残念ながら、フィオナがムウと再会を果たすための試練をこなす確率は極めて低いのであり、すなわち2人が将来めぐり会うことは、しょせん叶わぬ遠い夢なのかもしれないのだ。
だが、全く希望がないわけではない。天の神々が、フィオナが死に至るその前までに、もしくは、それから暫くの間に―― 人間は無欠の存在などではない、むしろ、その不完全さこそが、人間の姿そのものなのだということに気がつけば、少なからずとも多少の希望は生まれてこよう。
もしくは、例えその時2人がめぐり合わなくても、人の世が続く限り、2人の想いはどこかで生き続けるはずである。人が、何億年と繰り返されてきた命の連鎖の上に成り立っているように、その精神も、先人たちの想いを引き継いでこの地上にあるのではないだろうか。ムウとフィオナの報われぬ恋も、数百年、数千年と、人々の想いが交錯し続ける限り、いつかは形を変え、そして成就するものだと信じている。
ともあれ、この先も多くの困難が待ち受けているとは言え、事実上、彼女を呪う不幸な運命はもう無い。女神ペルセフォーネが魂から去った今、フィオナは完全な魔女となったわけだが、神々が悪しき魔女どもに与えた罰は、ゼウスによって免除されたはずだからである。
ムウの死を乗り越え、自らの運命を切り開いていくには今しばらく時間がかかるだろう。しかし、必ずやフィオナは立ち上がり、確かな光の中へと歩んでいく。
そして、その肉体に満ちた聖なるムウの小宇宙は、永遠にフィオナの魂を包み込み続けていくのだ。